第九章 エストカピタールにて 第九話
文字数 2,963文字
いよいよ『ラディアント トレゾール』の初日の幕が開いた。会場は満員で、立ち見が出るほどだった。前半の芝居は樵の青年が森の妖精に恋をして、妖精の王に反対されるが、最後は結ばれるという、おとぎ話のような他愛ない物語だった。ただ、ロマンティックで万人受けするので、多くの観客は悪い印象を抱かなかったようだ。
後半のレビューショーも大成功だった。最初こそ客席に戸惑いが滲んていたが、楽しい音楽に乗せられて徐々に熱気を帯びてきた。賑やかなシーンでは手拍子が起き、オペラ歌手やバレリーナの見せ場には拍手とブラボーの声が起き、最後はスタンディングオベーションのアンコールの嵐だった。この国の芸術文化の程度でできる限りを尽くした甲斐があった。
パメラは芸術祭の時のように、ラインダンスの前に独唱した。その歌声は多くの人を魅了した。舞台が終わると多くの演劇通が彼女に花を渡そうと楽屋口押し寄せたし、劇場を去る人人も、あの歌手は誰だろうと噂しあっていた。夜会でも、目ざとい社交界の人々に囲まれて、賞賛の雨を浴びていた。
それを黄色と黒のどぎつい配色のドレスを着た夫人が、遠巻きに眺めていた。
「パメラのお母様」
リゼットはどこか寂しそうなその背中にそっと呼びかけた。
「ご覧になったでしょう。パメラはデビューでこんなにも多くの人を虜にしてしまいましたわ。だからどうか歌手になることを認めてあげてください。お母様は玉の輿に乗ることを望んでおいででしたけど、それだけが生きる道ではありませんし、幸せでもありません。パメラはこれからきっと幸せになりますわ。娘の幸せを一番に臨むあなたなら、おわかりでしょう」
パメラの母親は今日はかなきり声を上げることはしなかった。
「そうね。あの子はわたしの望む生き方をしなくてもいいのかもしれないわね。むしろわたしなんぞのようにならないなら、その方がずっといいわ」
彼女は顔をゆがめて無理に笑うと、会場を後にしようとした。
「お母様!」
パメラはその姿を見つけ、呼び止めた。そして群がっている人々に、母親を紹介した。人々はタンセラン男爵夫人の俗っぽくて品のない雰囲気に、少々眉をひそめた。夫人もそれを感じ取って、パメラの側を去ろうとした。だがパメラは絡めた腕を離さなかった。
「わたしがこういうめぐりあわせになったのも、お母様が妃選びに連れてきてくださったからこそです。感謝しています。わたしはお母様の望む道を進まなかった悪い娘かもしれませんけれど、お母様の娘で良かったと、いま心から思っています。だからタンセラン家に嫁いだことも、わたしの母になったことも、不幸なことだと否定しないでほしいのです。これまではお母様が私を幸せにしようと頑張ってくれましたけど、今日からはわたくしがお母様を幸せにしますわ。お父様との結婚もわたくしという娘を産んだのも、全て良かったと思わせて差し上げますから、どうかまた母と娘に戻ってくださいな」
タンセラン男爵夫人は初めて娘から率直な思いを告げられ、思わず両の目から涙を流し、人々から顔を背けてハンカチで必死に拭った。
姉と比較して、自分は不幸な結婚をしたと思い込み、自分の叶わなかった理想を娘に押し付けた。どこかでそれは健全ではないとわかっていながら、そうでもしなければ虚しさで押しつぶされてしまいそうだったのだ。
だが己の抱く理想だけが幸せではないとパメラが身をもって示してくれた。そして己の人生は決して不幸ではないのだと、力強く励ましてくれたのだ。まるで憑き物が落ちたように、彼女は安堵した。
パメラは母の肩に手を置いて、そっと寄り添った。集まった人々は詳しい事情が分からないにしろ、美しい親子の愛情に胸を打たれたようで、自然と拍手が起こり、もらい泣きする者すらいた。
「でもパメラのお母様、今度は国一のプリマドンナにならないと許さない、とか言い出すんじゃないかしら」
「もう、サビーナったら野暮はやめなさいな」
ブランシュとサビーナが話していると、せかせかとポーラック公爵がやってきた。彼は皇帝の名代としてその他の貴族たちを引き連れている。
「ブランシュ、我々は明日のうちにポルトシュパルへ戻らねば。帰りの馬車を手配してくれ」
「申し訳ありませんが、ポルトシュパル行きの馬車は一週間後にならないとありませんわ。こちらへ来るお客様を運ぶのに精一杯で、こちらへ着いた馬車は急いで戻りますの、だからお客や荷物を載せられないんですわ」
もちろんこれは客を無理やりエストカピタールに滞在させるシモンの策略だった。
「なんという杜撰な計画だ。来る客もいれば帰る客もいると想定するべきだろう。まったく、お前は調子に乗ってあれこれやったようだが詰めが甘い」
ポーラック公爵のお説教中、ブランシュは眉をハの字、口をへの字にした予科顔で聞き流した。堪えているのかいないのかわからない上に、夜会で娘を泣きそうになるまで叱責しているように見えてしまうので、ポーラック公爵は溜息でお説教を切り上げて去っていった。父の姿が見えなくなった瞬間、ブランシュは予科顔をやめた。
そこに王女の到来を告げる声が聞こえた。会場の人々は一斉に居住まいを正す。キトリィは仮面舞踏会の時のドレスを身に着けていたが、髪は何本も編み込み、ところどころを星の飾りでネットのように留め背中に垂らす、リヴェール王家の伝統的な髪型をしていた。
大使とアンリエット、それに従者を二名連れて歩く姿は、年若いとはいえ一国の王女らしい威厳があった。会場奥の椅子の前に案内されると、優雅に前に進み出てお辞儀し、会場の人々に挨拶する。
「本日は、我が国リヴェールとトレゾールの友好事業公演が無事に運び、大変嬉しく思っています。多くの人々に足を運んでいただけたこと、とても光栄であり、これこそが両国の友好の証だと誇らしい限りです。リヴェールを代表して皆様にお礼申し上げます。
今夜はこの舞台の成功を祝って。また両国の末永い友好を祈り、大いに楽しんでくださいませ。それでは乾杯いたしましょう」
キトリィの合図で人々はグラスを持ち上げ、多からに乾杯の声をあげた。
「王女様ったら、なんだかご立派になって。馬車から飛び出してはしゃいでいたお方とは思えないわ」
宝物の展覧会で初めて会ったときを思い出し、リゼットは思わず溜息をついた。すると、主だった人間への挨拶を終えたキトリィが小走りでやってきて話の輪に加わる。
「どうだった? 上品で優雅な王女に見えたでしょう。リゼットさんの真似をしたのよ」
「わたくしの真似を? まぁ、お手本にするならアンリエット様になさいませ」
「いいんですのよ。誰が手本でも淑女らしい振る舞いを身に着けられたのですから。これで王女様が妃選びに参加した意義があったというものですわ」
アンリエットも王女の成長が感慨深かったようだ。
「立派な王女様のように振る舞わないと、リゼットさんの演目にケチが付いてしまうものね。お芝居を見ている時も、じっと静かにしていたわ。でもラインダンスになったらうずうずしちゃった。わたしも一緒に踊りたくなったの」
キトリィは輪っかのドレスの中で、ちょっと足を交互に上げた。先ほどのようにお澄まししているよりも、やはりこの方が王女らしい。
後半のレビューショーも大成功だった。最初こそ客席に戸惑いが滲んていたが、楽しい音楽に乗せられて徐々に熱気を帯びてきた。賑やかなシーンでは手拍子が起き、オペラ歌手やバレリーナの見せ場には拍手とブラボーの声が起き、最後はスタンディングオベーションのアンコールの嵐だった。この国の芸術文化の程度でできる限りを尽くした甲斐があった。
パメラは芸術祭の時のように、ラインダンスの前に独唱した。その歌声は多くの人を魅了した。舞台が終わると多くの演劇通が彼女に花を渡そうと楽屋口押し寄せたし、劇場を去る人人も、あの歌手は誰だろうと噂しあっていた。夜会でも、目ざとい社交界の人々に囲まれて、賞賛の雨を浴びていた。
それを黄色と黒のどぎつい配色のドレスを着た夫人が、遠巻きに眺めていた。
「パメラのお母様」
リゼットはどこか寂しそうなその背中にそっと呼びかけた。
「ご覧になったでしょう。パメラはデビューでこんなにも多くの人を虜にしてしまいましたわ。だからどうか歌手になることを認めてあげてください。お母様は玉の輿に乗ることを望んでおいででしたけど、それだけが生きる道ではありませんし、幸せでもありません。パメラはこれからきっと幸せになりますわ。娘の幸せを一番に臨むあなたなら、おわかりでしょう」
パメラの母親は今日はかなきり声を上げることはしなかった。
「そうね。あの子はわたしの望む生き方をしなくてもいいのかもしれないわね。むしろわたしなんぞのようにならないなら、その方がずっといいわ」
彼女は顔をゆがめて無理に笑うと、会場を後にしようとした。
「お母様!」
パメラはその姿を見つけ、呼び止めた。そして群がっている人々に、母親を紹介した。人々はタンセラン男爵夫人の俗っぽくて品のない雰囲気に、少々眉をひそめた。夫人もそれを感じ取って、パメラの側を去ろうとした。だがパメラは絡めた腕を離さなかった。
「わたしがこういうめぐりあわせになったのも、お母様が妃選びに連れてきてくださったからこそです。感謝しています。わたしはお母様の望む道を進まなかった悪い娘かもしれませんけれど、お母様の娘で良かったと、いま心から思っています。だからタンセラン家に嫁いだことも、わたしの母になったことも、不幸なことだと否定しないでほしいのです。これまではお母様が私を幸せにしようと頑張ってくれましたけど、今日からはわたくしがお母様を幸せにしますわ。お父様との結婚もわたくしという娘を産んだのも、全て良かったと思わせて差し上げますから、どうかまた母と娘に戻ってくださいな」
タンセラン男爵夫人は初めて娘から率直な思いを告げられ、思わず両の目から涙を流し、人々から顔を背けてハンカチで必死に拭った。
姉と比較して、自分は不幸な結婚をしたと思い込み、自分の叶わなかった理想を娘に押し付けた。どこかでそれは健全ではないとわかっていながら、そうでもしなければ虚しさで押しつぶされてしまいそうだったのだ。
だが己の抱く理想だけが幸せではないとパメラが身をもって示してくれた。そして己の人生は決して不幸ではないのだと、力強く励ましてくれたのだ。まるで憑き物が落ちたように、彼女は安堵した。
パメラは母の肩に手を置いて、そっと寄り添った。集まった人々は詳しい事情が分からないにしろ、美しい親子の愛情に胸を打たれたようで、自然と拍手が起こり、もらい泣きする者すらいた。
「でもパメラのお母様、今度は国一のプリマドンナにならないと許さない、とか言い出すんじゃないかしら」
「もう、サビーナったら野暮はやめなさいな」
ブランシュとサビーナが話していると、せかせかとポーラック公爵がやってきた。彼は皇帝の名代としてその他の貴族たちを引き連れている。
「ブランシュ、我々は明日のうちにポルトシュパルへ戻らねば。帰りの馬車を手配してくれ」
「申し訳ありませんが、ポルトシュパル行きの馬車は一週間後にならないとありませんわ。こちらへ来るお客様を運ぶのに精一杯で、こちらへ着いた馬車は急いで戻りますの、だからお客や荷物を載せられないんですわ」
もちろんこれは客を無理やりエストカピタールに滞在させるシモンの策略だった。
「なんという杜撰な計画だ。来る客もいれば帰る客もいると想定するべきだろう。まったく、お前は調子に乗ってあれこれやったようだが詰めが甘い」
ポーラック公爵のお説教中、ブランシュは眉をハの字、口をへの字にした予科顔で聞き流した。堪えているのかいないのかわからない上に、夜会で娘を泣きそうになるまで叱責しているように見えてしまうので、ポーラック公爵は溜息でお説教を切り上げて去っていった。父の姿が見えなくなった瞬間、ブランシュは予科顔をやめた。
そこに王女の到来を告げる声が聞こえた。会場の人々は一斉に居住まいを正す。キトリィは仮面舞踏会の時のドレスを身に着けていたが、髪は何本も編み込み、ところどころを星の飾りでネットのように留め背中に垂らす、リヴェール王家の伝統的な髪型をしていた。
大使とアンリエット、それに従者を二名連れて歩く姿は、年若いとはいえ一国の王女らしい威厳があった。会場奥の椅子の前に案内されると、優雅に前に進み出てお辞儀し、会場の人々に挨拶する。
「本日は、我が国リヴェールとトレゾールの友好事業公演が無事に運び、大変嬉しく思っています。多くの人々に足を運んでいただけたこと、とても光栄であり、これこそが両国の友好の証だと誇らしい限りです。リヴェールを代表して皆様にお礼申し上げます。
今夜はこの舞台の成功を祝って。また両国の末永い友好を祈り、大いに楽しんでくださいませ。それでは乾杯いたしましょう」
キトリィの合図で人々はグラスを持ち上げ、多からに乾杯の声をあげた。
「王女様ったら、なんだかご立派になって。馬車から飛び出してはしゃいでいたお方とは思えないわ」
宝物の展覧会で初めて会ったときを思い出し、リゼットは思わず溜息をついた。すると、主だった人間への挨拶を終えたキトリィが小走りでやってきて話の輪に加わる。
「どうだった? 上品で優雅な王女に見えたでしょう。リゼットさんの真似をしたのよ」
「わたくしの真似を? まぁ、お手本にするならアンリエット様になさいませ」
「いいんですのよ。誰が手本でも淑女らしい振る舞いを身に着けられたのですから。これで王女様が妃選びに参加した意義があったというものですわ」
アンリエットも王女の成長が感慨深かったようだ。
「立派な王女様のように振る舞わないと、リゼットさんの演目にケチが付いてしまうものね。お芝居を見ている時も、じっと静かにしていたわ。でもラインダンスになったらうずうずしちゃった。わたしも一緒に踊りたくなったの」
キトリィは輪っかのドレスの中で、ちょっと足を交互に上げた。先ほどのようにお澄まししているよりも、やはりこの方が王女らしい。