第七章 芸術祭 第六話

文字数 3,022文字

 ローズはすっかり弱気になって嘆いた。リゼットは放っておくことができず、側でおろおろしていた。すると、パメラたちがこちらへやってきた。いつの間にか一緒にいたらしいサビーナが焦った様子で告げた。

「リゼット、大変よ。ブランシュが怪我をして病院に運び込まれたんですって。わたくしがお屋敷に伺ったら、ポーラック卿にそう言われて」

「え、それは本当? 大丈夫なの?」

「わからないわ。とにかく様子を見に行きましょう」

 サビーナの話だと、ブランシュは今朝母親と教会へ礼拝に行ったそうだが、その帰りに馬車に乗り込むとき、踏み台が壊れて転倒したということだった。

「それで、どうしてローズ様がついてくるの?」

「別のお医者様に見せたら、痛みが直るかもしれないと思って、わたくしがついてくるように言ったのよ。セカンドオピニオンね」

 サビーナはリゼットの行き過ぎた親切心に溜息をついたが、ローズを追い返そうとはしなかった。

 病院につくと、ブランシュは椅子に座ってつまらなさそう聖書を読んでいた。

「おじい様ったら大袈裟ですわ。ちょっと転んで、たまたまお医者様が居合わせたから、ご厚意ですぐに看ていただいただけなのに、倒れて運び込まれたなんて言って。心配をかけてごめんなさい。わたくしはこのとおり元気です。怪我なんて、左手の人差し指を突き指したくらいですわ」

「……それで、どうやってバイオリンを演奏する気なの?」

 サビーナの指摘で、初めて笑っていられる状態でないと気付いたブランシュだった。

 この医院からポーラック家の屋敷までは、川沿いにしばらく歩いて、橋を渡って寺院の前を横切った方が近い。一行はぞろぞろと川辺を歩いていた。

 すると、失意のどん底という顔で河原に座り込んでいるリアーヌがいた。ただ事ではないと近付いてみると、泣きながら地面に落ちたキャンパスを指さした。

 リアーヌの絵は完成間近だった。高価な青い絵の具を重ねて、念入りに表現された青空と川。見事な出来栄えだった。

 ところが、少し休憩をとろうと、侍女が敷いた敷布に座って運ばせたお茶や菓子を楽しんでいると、背後から、にゃあ、という鳴き声が聞こえたか。

 背後を振り返ると、白に茶と黒の大ぶりのまだら模様の猫が、画材道具を置いてある台の上に乗っていた。絵の具の小瓶は地面転げ落ちた。あの貴重な青の絵の具も地面に流れてしまっている。

「この……! おどきなさい!」

 かっとなったリアーヌが追い払おうとすると、猫は一声泣いてするりと地面に降り立った。その跳躍で赤の絵の具の小瓶が倒れ、キャンパスにかかった。慌てて雑巾で拭き取ろうとするも、逆に汚れを広げる結果となり、絵画が台無しになってしまったのだった。

 誰もかれもが不幸に見舞われている。

「……なんだか嫌な予感がする。一度店に戻るわ」

 リゼットが急ぎ足で石畳をいくと、店のある通りからぞろぞろと人がやってきた。その中にシモンとノエル、カミーユとお針子たちもいた。

「近くの家で出火があったのです。あそこは木造の家が多いので、燃え広がったら大変だと、みんな避難してきたのです」

「嘘でしょう! トウシューズは? 衣装は? 置いてきたってことは燃えちゃったの?」

 リゼットはカミーユの肩を掴んでめちゃくちゃに揺さぶった。

「落ち着け。すぐに人が消し止めに行ったから、きっとぼや程度で済んだはずだ」

 シモンの言う通り、すぐに消火が終わったとの報せがあった。急いで戻ると店はまったく無事だった。

「良かったわ。こうも不幸な出来事が起こっているから、わたしの衣装とトウシューズも燃えちゃったのかと思った」

 リゼットは胸をなでおろして工房へ入った。そしてトルソーに着せ付けてあった衣装と試行錯誤の末に出来上がったトウシューズに駆け寄った。

 ところが、その二つはどちらも無事ではなかった。衣装はスカートがずたずたに切り裂かれ、袖が引きちぎられていた。トウシューズもハンマーか何かで叩き潰されて、コルクが粉々になっている。リゼットはへなへなとその場に座り込んだ。

「なぜこんなことに。鍵をかけずに避難したから、何者かが入り込んだのか」

「嘘だろう! 俺の努力の結晶が……。コルクはもうないし、もう一度削り出すところからとなると、芸術祭に間に合うかどうか。衣装も直すとなると手が足りない。あのシルクのシフォンは高価だし、あの店も仕入れているかわからないから、同じものを作れるとは限らないし」

「そんな。じゃあお嬢様のバレエはどうなるの?」

 ノエルの問いにカミーユは力なく首を振ってこたえた。

 やはり不幸は続くものだった。しかもこの衣装の破壊は、何者かの故意によるものだ。一体誰がこんなことを。リゼットの脳裏には、一瞬メリザンドの顔が浮かんだ。

(まさか、裁判の報復だったりして。でも、火事騒ぎで誰も犯人を見ていないのよね。

 いや、犯人探しより、今は芸術祭よ。どうする? でもバリエーションはバレエシューズでも踊れる。衣装はありあわせの生地でもいいから作り直せば何とかなる、わよね)

 トウシューズを諦めれば、リゼットは問題なく芸術祭に参加できる。ひとまずは安心して立ち上がると、目の前には芸術祭に出る術を失ったキトリィ、ブランシュ、ローズ、リアーヌの暗い顔があった。

 彼女たちの気持を思うと、自分だけ何とかなりそうだなど、とても言えない。

「……まぁ、わたくしはもともと賑やかしだもの。出られなくても別に……」

 ブランシュはリゼットの遠慮を吹き飛ばそうと空元気を出したが、やはりそれなりに準備をしてきたわけであり、こんな事故で出場できなくなるのは不本意に違いなかった。まして熱意をもって臨んでいたローズとリアーヌの無念はいかほどだろうか。

「リアーヌ様、もっと小さいキャンパスにして、残った絵具で絵を描いたら?」

「そんな短期間で描いた規模の小さい絵なんて、物笑いの種になるだけですわ。それに絵具は殆どなくなってしまいました。他の色はまた買えばいいですけれど、あの青い絵の具だけはもう手に入らないのです」

「ローズ様、右手を使わないで演奏できる曲にするとかは?」

「そんな曲あるわけありません。皆様の前で基礎練習のロングトーンを披露しろとおっしゃるの?」

「王女様も、高い音を使わない曲は……ないですわよね。じゃあいっそ、綱渡りとか、空中ブランコは? お得意だとおっしゃっていましたよね」

「リゼット様、リヴェール王女様のお立場でそんな曲芸を見せるわけには……」

「ですわよね……」

 アンリエットにやんわり難色を示されて、リゼットは肩を落とした。彼らが芸術祭に出場する術はないのだろうか。

(このままみんな不戦敗なんてだめよ。仮にそれでわたしのバレエが褒められたとしても、嬉しくないわ。何か方法はないかしら……)

 楽器を使わずにできることといったら歌だったが、パメラは天性の歌声と準備期間をすべて使ったレッスンによって聞かせられるレベルになっているのであって、あと四日ではとても無理だ。

 ではダンスは、というと手が動かせない人がいるから無理だろう。

(……じゃあ、手を使わないダンスをすればいいんじゃない?)

 リゼットは閃いてしまった。足だけを使った踊り、宝川歌劇団の十八番を。

 シモンはリゼットがまた余計なおせっかいを焼こうとしていると察知し、阻止すべく口を挟もうとしたが、一足遅かった。

「ねぇ、皆さんで協力しませんこと?」
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登場人物紹介

リゼット・ド・レーブジャルダン

トレゾールの田舎クルベットノンの子爵令嬢。

前世は宝川歌劇団の娘役・夢園さゆり(本名は大原悦子)

シモン・ド・レーブジャルダン

リゼットの兄。子爵令息。

パメラ・ド・タンセラン

皇太子妃候補の男爵令嬢。

ブランシュ・ド・ポーラック

皇太子妃候補の公爵令嬢。

サビーナ・ド・エテスポワール

皇太子妃候補の伯爵令嬢。

ローズ・ド・エタミーヌ

皇太子妃候補の伯爵令嬢。

リアーヌ・ド・ブリュム

皇太子妃候補の伯爵令嬢。セブランの遠縁の親戚。

メリザンド・ド・ソンルミエール

皇太子妃候補の公爵令嬢。皇太子の幼馴染。

ルシアン・ド・グリシーヌ

皇太子。

セブラン・ド・メールヴァン

公爵令息。皇太子ルシアンの親友。リアーヌの遠縁の親戚。

ユーグ

皇太子つきの侍従。

キトリィ・ド・グリュザンデム

皇太子妃候補。リヴェールの第五王女。

アンリエット・ド・リュンヌ

キトリィの教育係の侯爵夫人。婚前はトレゾールの貴族令嬢だった。

ノエル

リゼットの侍女。

カミーユ

ノエルの兄。仕立屋。

皇帝

トレゾールの現皇帝。ルシアンの父。

皇后

トレゾールの現皇后。ルシアンの母。

ポーラック卿

ブランシュの祖父。

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