第一章 労多くして功少なし 第二話
文字数 2,878文字
役に貴賤はない。端役であろうとも、芝居には必要不可欠であり、蔑ろにしてよいものではない。そんなこと、夢園 さゆりはよくわかっていた。実際に、乳母役にやりがいを感じないわけではない。
それでも釈然としない。
新人公演ヒロインを取ったのは、研6の絢羽莉愛 だ。
そもそも娘役は、男役と比べて旬が短い。男役は、十年経って、つまり研10になって初めて一人前と言われる。トップスターに就任する学年には個人差があるが、例外を除けば研10以上がふつう。大体は研13とか、それくらいだ。
だがトップ娘役となると話は違う。これも個人差があるが、大体研4から研8までで就任することが多い。早い人だと研2でトップスターとなることもある。逆に研10以上で就任となれば、遅咲きと称される。ファンはそんな優しい言い方はせず、容赦なく高齢就任、おばさん、と批判するのだ。
女は若くてかわいい方がいい。なんて一般社会では女性蔑視、セクハラ、ジェンダーバイアス、などと批判されそうな考えだが、宝川歌劇のなかでは当然の価値観だ。そもそも男役の対して女性を演じる人間を、女役ではなく娘役と呼ぶことからも、それがうかがい知れる。
娘役は新人公演を卒業しないうちにトップ娘役になることが多い。新公ヒロインを取るような娘役は即ち有力なトップ娘役候補生だ。
「主演の秋月 さんの足を引っ張らないよう、全力でついて行かせていただきます。また本役の姫咲 さんや上級生の方々、先生方に教えていただいたことを大切に演じたいと思います」
宝川歌劇専門雑誌の新人公演主演コンビのインタビューで、絢羽莉愛はこう答えていた。男役トップスターの役を演じる上級生の秋月にも、本公演でヒロインを演じるトップ娘役姫咲 ののにも、演出家やその他の上級生にも気を使っている。さらに、微笑を浮かべ、空気の多く混じった、大きすぎない声で、控えめに喋る。トップ娘役候補生として、正解の受け答えだ。
まかり間違っても、ヒロインとして舞台を引っ張っていきたいとか、自分ならではのヒロインを演じたいとか、そんなことを言ったら、やれ生意気だ、偉そうだ、下級生娘役としてなっていないと、ファンから袋叩きに遭う。もちろん、SNSや掲示板の中で。はきはき元気よく受け答えしても良くない。元気が良くていいよね、と肯定してくれるファンもいるかもしれないが、多くの場合は、品がない、うるさい、自己主張が強い、と批判される。
「印象に残っている場面、お気に入りの場面などはありますか?」
「やはり最後の舞踏会の場面です。宝川らしい華やかな場面ですし、役としても、様々な障壁を乗り越えて、やっと幸せをつかむ場面なので、特に大事な場面として演じています」
秋月怜央 はしっかりとした声で、素直に自分の思い入れのある場面を答える。
「わたくしは、噴水の前の場面で、秋月さんが、わたしの手を取って、エスコートしてくださるところがあるのですが、あの時の秋月さんが、ほんっとうに王子様のようにカッコよくて……。すごく素敵でいらっしゃるので、お客様にもうっとりしていただけたらと思っております」
はにかみながら、横にいる相手役を熱い視線で見つめる。少女漫画のヒロインが、恋人へ向ける愛のまなざしのように。漫画だったら、それこそピンク色のハートが彼女からぴょこぴょこ飛び出していることだろう。
断っておくが、絢羽莉愛は同性愛者ではない。それなのに舞台を下りても、恋人役に対してハートを飛ばすのは、お慕い芸という娘役の一種のパフォーマンスである。こうしていると、相手役の大多数のファンから、かわいい、男役を立てている、舞台の外でも夢を見せてくれる、と評価される。
「このネックレスは、今回組ませていただくことが決まった時に、秋月さんからいただいたものなのですけれど……」
公演についての話が尽きてきて、司会は今日のファッションのポイントを二人に訊ねた。絢羽莉愛はクリーム色のワンピースの胸元に光るネックレスをこう紹介した。繊細な金鎖の先にガラスでできた小さな薔薇が揺れている。
男役が相手役に対して、アクセサリーなどをを贈ることはよくある。プライベート用でも舞台用でも。それこそ夫婦役だったら、結婚指輪などと、ペアのリングをプレゼントすることもある。個人差はあるが、男役もお慕い芸を受けるのがまんざらでもなかったり、肯定して自分もそれに乗っかり恋人のようなパフォーマンスをすることも多い。何度も言うが、同性愛者というわけではない。
何にせよ、好意を見せられて良い気分がしない者はない。将来のトップスター候補から気に入られるというのも、娘役がトップ娘役の地位を得るためには、ある程度は必要なことなのかもしれない。
新人公演主演を取ったとはいえ、では絢羽莉愛がもうトップ娘役確約かというと、そうではない。
いま夢園さゆりのいる藤組のトップ娘役は研8の姫咲のの。彼女にはまだ退団の兆しはない。他の組のトップ娘役も、今すぐ誰か去るということはないようだ。席が空かなければ座れない。
そして、ライバルもいる。まず、研8の音輝 めいは本公演でヒロインの次に出番が多く、ソロ歌唱まである主人公の許嫁を演じている。過去に新人公演ヒロインも二回経験している。しかも、一つの組を更に二つか三つにチームに分けして、常設劇場以外の劇場で行われる、いわゆる別箱公演でヒロインを演じたこともある。別箱ヒロインも、トップ娘役への大切なステップだ。トップ娘役候補の中では、彼女が筆頭と言っていい。
また、このひとつ前の公演で新公ヒロインを演じたのは研5の紅乃美咲 。彼女も別箱でのヒロイン経験がある。
そして、去年の秋に菊組から移動してきた研2の氷華 きりなもいる。ヒロイン経験はまだないが、移動する前から本公演でも別箱でも目立つ役を与えられており、明らかにトップ娘役候補生とみなされている。
彼女たちのように、トップ候補生と呼べるスターたちを俗に路線と呼びならわす。トップコース、つまりトップ路線にのった、というところから来た言葉だろう。男役娘役どちらに対しても使われる。
藤組には、少なくともこのように路線娘役がひしめいている状態なのだ。
路線スターは人気スターということでもある。なので物語上重要な役は、彼らが務めることになる。主演は男役トップスター、ヒロインはトップ娘役、それ以降は路線の順に役が割り振られ、路線でない者たちはその次。そしてここで宝川歌劇団全体に共通した年功序列が作用し、個々の能力を加味しつつも、上級生から優先的に役が回る。夢園さゆりのような、非路線の研7娘役など、アンサンブルが関の山だし、新人公演は最後の学年なので、年序列で乳母を取れたに過ぎないのだ。
しかも、この役というのは、自分でつかみ取るものではない。
普通の演劇やミュージカルの世界では、毎回オーディションを経て、文字通り役をつかむことになる。だが宝川歌劇団は別だ。公演が決まると、香盤が発表され、あなたはこの役ですよと、割り振られるのである。
それでも釈然としない。
新人公演ヒロインを取ったのは、研6の
そもそも娘役は、男役と比べて旬が短い。男役は、十年経って、つまり研10になって初めて一人前と言われる。トップスターに就任する学年には個人差があるが、例外を除けば研10以上がふつう。大体は研13とか、それくらいだ。
だがトップ娘役となると話は違う。これも個人差があるが、大体研4から研8までで就任することが多い。早い人だと研2でトップスターとなることもある。逆に研10以上で就任となれば、遅咲きと称される。ファンはそんな優しい言い方はせず、容赦なく高齢就任、おばさん、と批判するのだ。
女は若くてかわいい方がいい。なんて一般社会では女性蔑視、セクハラ、ジェンダーバイアス、などと批判されそうな考えだが、宝川歌劇のなかでは当然の価値観だ。そもそも男役の対して女性を演じる人間を、女役ではなく娘役と呼ぶことからも、それがうかがい知れる。
娘役は新人公演を卒業しないうちにトップ娘役になることが多い。新公ヒロインを取るような娘役は即ち有力なトップ娘役候補生だ。
「主演の
宝川歌劇専門雑誌の新人公演主演コンビのインタビューで、絢羽莉愛はこう答えていた。男役トップスターの役を演じる上級生の秋月にも、本公演でヒロインを演じるトップ娘役
まかり間違っても、ヒロインとして舞台を引っ張っていきたいとか、自分ならではのヒロインを演じたいとか、そんなことを言ったら、やれ生意気だ、偉そうだ、下級生娘役としてなっていないと、ファンから袋叩きに遭う。もちろん、SNSや掲示板の中で。はきはき元気よく受け答えしても良くない。元気が良くていいよね、と肯定してくれるファンもいるかもしれないが、多くの場合は、品がない、うるさい、自己主張が強い、と批判される。
「印象に残っている場面、お気に入りの場面などはありますか?」
「やはり最後の舞踏会の場面です。宝川らしい華やかな場面ですし、役としても、様々な障壁を乗り越えて、やっと幸せをつかむ場面なので、特に大事な場面として演じています」
「わたくしは、噴水の前の場面で、秋月さんが、わたしの手を取って、エスコートしてくださるところがあるのですが、あの時の秋月さんが、ほんっとうに王子様のようにカッコよくて……。すごく素敵でいらっしゃるので、お客様にもうっとりしていただけたらと思っております」
はにかみながら、横にいる相手役を熱い視線で見つめる。少女漫画のヒロインが、恋人へ向ける愛のまなざしのように。漫画だったら、それこそピンク色のハートが彼女からぴょこぴょこ飛び出していることだろう。
断っておくが、絢羽莉愛は同性愛者ではない。それなのに舞台を下りても、恋人役に対してハートを飛ばすのは、お慕い芸という娘役の一種のパフォーマンスである。こうしていると、相手役の大多数のファンから、かわいい、男役を立てている、舞台の外でも夢を見せてくれる、と評価される。
「このネックレスは、今回組ませていただくことが決まった時に、秋月さんからいただいたものなのですけれど……」
公演についての話が尽きてきて、司会は今日のファッションのポイントを二人に訊ねた。絢羽莉愛はクリーム色のワンピースの胸元に光るネックレスをこう紹介した。繊細な金鎖の先にガラスでできた小さな薔薇が揺れている。
男役が相手役に対して、アクセサリーなどをを贈ることはよくある。プライベート用でも舞台用でも。それこそ夫婦役だったら、結婚指輪などと、ペアのリングをプレゼントすることもある。個人差はあるが、男役もお慕い芸を受けるのがまんざらでもなかったり、肯定して自分もそれに乗っかり恋人のようなパフォーマンスをすることも多い。何度も言うが、同性愛者というわけではない。
何にせよ、好意を見せられて良い気分がしない者はない。将来のトップスター候補から気に入られるというのも、娘役がトップ娘役の地位を得るためには、ある程度は必要なことなのかもしれない。
新人公演主演を取ったとはいえ、では絢羽莉愛がもうトップ娘役確約かというと、そうではない。
いま夢園さゆりのいる藤組のトップ娘役は研8の姫咲のの。彼女にはまだ退団の兆しはない。他の組のトップ娘役も、今すぐ誰か去るということはないようだ。席が空かなければ座れない。
そして、ライバルもいる。まず、研8の
また、このひとつ前の公演で新公ヒロインを演じたのは研5の
そして、去年の秋に菊組から移動してきた研2の
彼女たちのように、トップ候補生と呼べるスターたちを俗に路線と呼びならわす。トップコース、つまりトップ路線にのった、というところから来た言葉だろう。男役娘役どちらに対しても使われる。
藤組には、少なくともこのように路線娘役がひしめいている状態なのだ。
路線スターは人気スターということでもある。なので物語上重要な役は、彼らが務めることになる。主演は男役トップスター、ヒロインはトップ娘役、それ以降は路線の順に役が割り振られ、路線でない者たちはその次。そしてここで宝川歌劇団全体に共通した年功序列が作用し、個々の能力を加味しつつも、上級生から優先的に役が回る。夢園さゆりのような、非路線の研7娘役など、アンサンブルが関の山だし、新人公演は最後の学年なので、年序列で乳母を取れたに過ぎないのだ。
しかも、この役というのは、自分でつかみ取るものではない。
普通の演劇やミュージカルの世界では、毎回オーディションを経て、文字通り役をつかむことになる。だが宝川歌劇団は別だ。公演が決まると、香盤が発表され、あなたはこの役ですよと、割り振られるのである。