第二章 レーブジャルダン家 第四話
文字数 2,895文字
思う存分終わってしまった人生を懐かしみ、心残りに思いをはせた。その後、新しい人生を歩もうと気持ちを切り替えた頃には、既に陽が傾いていた。夜になると窓の外が月あかりでボンヤリと浮かび上がる以外は、完全な闇だった。闇に包まれて、リゼットは自然と眠りに落ちていた。
翌朝、朝日と小鳥のさえずりで目覚めた。既にノエルが部屋にいて、洗顔用の水差しと盆をもって待機していた。盆に注いだ水で顔を洗う。それからドレッサーの前で髪をブラッシングしてもらう。そしてネグリジェを脱いで、白い下着をつけて、コルセットを絞めて、ピンク色で小花の柄のドレスを着た。例に漏れず18世紀のヨーロッパ貴族の服装そのもの。少しくすんだ色味で、とても可愛らしい。着替え終わると髪を整えてもらう。全体的にアップにしてから毛先を垂らす。舞台ではかつらで表現していた貴族の令嬢の髪型だ。
朝の支度を全てやってもらうなんて、これぞ優雅な貴族の生活だ。
「朝食のお時間ですから、お食事をとるお部屋にご案内します。お部屋を出て左手に歩き、階段を下りて一階へ。ちなみに降りたここが大広間ですわ。お嬢様が落ちた階段というのはここです。今日は足を滑らせないでくださいませ」
先導するノエルについて行きながら、道順を覚える。白い壁に扉や手すりは木目調と統一されている。手すりや扉の形、窓の枠、曲線的で可愛らしい。少し古びた感じも却って作り物ではないという現実味があって素敵だ。
階段は思っていたより小さかった。L字に曲がっていて、大広間の紫の絨毯に続いている。絨毯は毛足が短く、また日に焼けたのかところどころ色あせていた。広間というだけあって、花瓶が飾られていたり、地紋のある布が張られたソファとローテーブルが壁際に二組も配されている。きっとここでパーティーを開いたりするのだろう。
広間の右側の扉を開けると、また絨毯の廊下があり、数歩も歩かぬうちに着いた扉の前で、ノエルは足を止めた。
「こちらがご家族がお食事をなさるお部屋でございます。奥様も旦那様もシモン様も、もうお揃いです。ご両親を驚かせたり心配させたりなさらないようにお振舞いください」
「わ、わかったわ」
少し緊張して、ノエルが開いた扉の中に入る。部屋は意外と小ぢんまりとしていた。中央に縦長のテーブルクロスをかけた机があり、机の短辺、いわゆるお誕生日席に父親のジョルジュが、その向かって左側に母親のシュザンヌが、対面にシモンが座っている。
「まぁリゼット、もうすっかりいいのかしら?」
母親が立ち上がってこちらへやってきて、顔を愛おしそうに撫でながら聞いた。
「え、ええ。今日はもう頭がすっきりしています。お母様、心配かけてごめんなさい」
「それはよかったわ。でもまだ無理はしないでね。明日また医者が来ますから、それですっかり大丈夫だと言われるまでは、静かに過ごすのですよ」
「ええ、お母様」
ノエルの言う気を付けた振る舞いはできただろうかと、そっと彼女を窺うが、黄ばんだ唐草模様の布が張られた椅子を引いた彼女は、アイコンタクトの一つもくれなかった。
シモンの隣に座ると、また扉が開いて、小太りの白い帽子をかぶった男性がワゴンを押して入ってきた。ワゴンは車輪の大きさが合っていないのか、若干ガタガタしている。
ノエルと同じようなメイドが二人出てきて、三人で家族に配膳をする。朝食のメニューは丸いパンと黄金色のスープに焼いた肉と蕪のピクルスだった。ただし、リゼットの皿だけ魚もピクルスも細切れになっている。カラトリーもスプーンしか用意されない。
「お嬢様はまだ病み上がりですので、食べやすいように細かくしたのです。また、まだ意識がはっきりしていらっしゃらないようでしたら、ナイフやフォークを使うのもおっくかと思い、スプーンで全てお召し上がれるようにとも。もっとも、これは思い過ごしでしたけれども」
そうノエルが説明すると、父親はなるほどそうかと、温厚な笑みを浮かべた。
「ノエルはよく気が付くな。シモンの意見を聞いて、ノエルをリゼットの世話係にしてよかった。新しい者を雇い入れていたら、こんなに優しくリゼットを助けてくれたかどうか」
「勿体ないお言葉です」
家族に合わせて適当に笑顔でいながら、食事に手を付ける。パンは全粒粉が使われているような感じで、現代日本で購入するパンと比べたら味が落ち、しかも少し硬かったが、十分に食べられた。スープもしっかり煮込まれた深い味のコンソメで、とても美味しかった。肉も柔らかく焼かれていて、ハーブが効いている。ピクルスもあっさりとして、爽やかだ。
いつも食パン1枚に野菜に卵1個とフルーツ一切れしか食べていなかった身には、豪華すぎる朝食だった。昨日一日ゆっくり休んだせいもあって、ものすごくおいしく感じる。
「お、美味しい!」
思わず口をついたその言葉に、家族全員の視線が集まる。シモンは非難がましい目をしていた。食事中にこんなことを言ってはいけなかっただろうか。
「昨日から何も食べていないから、お腹が減っていたんでしょうね」
「それもそうだ。リゼット、もっと食べたかったら遠慮なく言いなさい」
喜んでその言葉に甘えたいところだったが、シモンの目つきが怖くて、遠慮した。
貴族の食卓と言っても、何のことはない、普通の家庭の朝食の風景のように、たわいもない会話をぽつぽつと交わす。そのうち全員が食べ終わると、父親が立ち上がり、合わせるように他の面々も立ち上がる。リゼットもそれに倣った。そしてノエルに先導されて部屋に戻る。
「先に言っておきますと、この部屋より奥の扉の向こうは厨房になっております。そこからは全て使用人の場所になりますので、お嬢様はお入りになってはいけません。
二階の説明をしますと、階段を上がってい右側の奥のお部屋は奥様のお部屋となります。左側の手前が書斎、その奥がシモン様のお部屋、さらに奥が旦那様のお部屋。廊下の角の向こうが客間になります。お嬢様のお部屋の向かいは空き部屋です」
説明を受けながら自室へ戻る。扉を閉めた途端、ノエルは急にきりっとした雰囲気になった。
「あのような普通のお食事に感動するべきではございません。どこぞの晩餐会に呼ばれたというならまだしも」
「ごめんなさい。ちゃんとしたご飯は久しぶりすぎて、つい」
「お食事、ですよ。お嬢様。まずは、言葉遣いからですわね」
ノエルは呆れたような声色で言った。
「まずは、一人称ですが、わたし、ではなく、わたくし、に直してください。奥様に申し上げたあの言葉も相応しくありません。お母様、心配をおかけして申し訳ございません、ですよ。美味しい、なんて直接的な表現もいけません。美味しゅうございます、とか、このお味は気に入りましたわ、とか、そんなふうにおっしゃってください」
「え、え、もう行儀見習いは始まってるの?」
「もちろんです。なるべく早く貴族のご令嬢らしくになっていただかなくてはいけませんから」
「でも、始めるなら始めるって、言ってくれればいいのに……」
すると、ノエルはずいっと顔を近づけて睨んできた。
翌朝、朝日と小鳥のさえずりで目覚めた。既にノエルが部屋にいて、洗顔用の水差しと盆をもって待機していた。盆に注いだ水で顔を洗う。それからドレッサーの前で髪をブラッシングしてもらう。そしてネグリジェを脱いで、白い下着をつけて、コルセットを絞めて、ピンク色で小花の柄のドレスを着た。例に漏れず18世紀のヨーロッパ貴族の服装そのもの。少しくすんだ色味で、とても可愛らしい。着替え終わると髪を整えてもらう。全体的にアップにしてから毛先を垂らす。舞台ではかつらで表現していた貴族の令嬢の髪型だ。
朝の支度を全てやってもらうなんて、これぞ優雅な貴族の生活だ。
「朝食のお時間ですから、お食事をとるお部屋にご案内します。お部屋を出て左手に歩き、階段を下りて一階へ。ちなみに降りたここが大広間ですわ。お嬢様が落ちた階段というのはここです。今日は足を滑らせないでくださいませ」
先導するノエルについて行きながら、道順を覚える。白い壁に扉や手すりは木目調と統一されている。手すりや扉の形、窓の枠、曲線的で可愛らしい。少し古びた感じも却って作り物ではないという現実味があって素敵だ。
階段は思っていたより小さかった。L字に曲がっていて、大広間の紫の絨毯に続いている。絨毯は毛足が短く、また日に焼けたのかところどころ色あせていた。広間というだけあって、花瓶が飾られていたり、地紋のある布が張られたソファとローテーブルが壁際に二組も配されている。きっとここでパーティーを開いたりするのだろう。
広間の右側の扉を開けると、また絨毯の廊下があり、数歩も歩かぬうちに着いた扉の前で、ノエルは足を止めた。
「こちらがご家族がお食事をなさるお部屋でございます。奥様も旦那様もシモン様も、もうお揃いです。ご両親を驚かせたり心配させたりなさらないようにお振舞いください」
「わ、わかったわ」
少し緊張して、ノエルが開いた扉の中に入る。部屋は意外と小ぢんまりとしていた。中央に縦長のテーブルクロスをかけた机があり、机の短辺、いわゆるお誕生日席に父親のジョルジュが、その向かって左側に母親のシュザンヌが、対面にシモンが座っている。
「まぁリゼット、もうすっかりいいのかしら?」
母親が立ち上がってこちらへやってきて、顔を愛おしそうに撫でながら聞いた。
「え、ええ。今日はもう頭がすっきりしています。お母様、心配かけてごめんなさい」
「それはよかったわ。でもまだ無理はしないでね。明日また医者が来ますから、それですっかり大丈夫だと言われるまでは、静かに過ごすのですよ」
「ええ、お母様」
ノエルの言う気を付けた振る舞いはできただろうかと、そっと彼女を窺うが、黄ばんだ唐草模様の布が張られた椅子を引いた彼女は、アイコンタクトの一つもくれなかった。
シモンの隣に座ると、また扉が開いて、小太りの白い帽子をかぶった男性がワゴンを押して入ってきた。ワゴンは車輪の大きさが合っていないのか、若干ガタガタしている。
ノエルと同じようなメイドが二人出てきて、三人で家族に配膳をする。朝食のメニューは丸いパンと黄金色のスープに焼いた肉と蕪のピクルスだった。ただし、リゼットの皿だけ魚もピクルスも細切れになっている。カラトリーもスプーンしか用意されない。
「お嬢様はまだ病み上がりですので、食べやすいように細かくしたのです。また、まだ意識がはっきりしていらっしゃらないようでしたら、ナイフやフォークを使うのもおっくかと思い、スプーンで全てお召し上がれるようにとも。もっとも、これは思い過ごしでしたけれども」
そうノエルが説明すると、父親はなるほどそうかと、温厚な笑みを浮かべた。
「ノエルはよく気が付くな。シモンの意見を聞いて、ノエルをリゼットの世話係にしてよかった。新しい者を雇い入れていたら、こんなに優しくリゼットを助けてくれたかどうか」
「勿体ないお言葉です」
家族に合わせて適当に笑顔でいながら、食事に手を付ける。パンは全粒粉が使われているような感じで、現代日本で購入するパンと比べたら味が落ち、しかも少し硬かったが、十分に食べられた。スープもしっかり煮込まれた深い味のコンソメで、とても美味しかった。肉も柔らかく焼かれていて、ハーブが効いている。ピクルスもあっさりとして、爽やかだ。
いつも食パン1枚に野菜に卵1個とフルーツ一切れしか食べていなかった身には、豪華すぎる朝食だった。昨日一日ゆっくり休んだせいもあって、ものすごくおいしく感じる。
「お、美味しい!」
思わず口をついたその言葉に、家族全員の視線が集まる。シモンは非難がましい目をしていた。食事中にこんなことを言ってはいけなかっただろうか。
「昨日から何も食べていないから、お腹が減っていたんでしょうね」
「それもそうだ。リゼット、もっと食べたかったら遠慮なく言いなさい」
喜んでその言葉に甘えたいところだったが、シモンの目つきが怖くて、遠慮した。
貴族の食卓と言っても、何のことはない、普通の家庭の朝食の風景のように、たわいもない会話をぽつぽつと交わす。そのうち全員が食べ終わると、父親が立ち上がり、合わせるように他の面々も立ち上がる。リゼットもそれに倣った。そしてノエルに先導されて部屋に戻る。
「先に言っておきますと、この部屋より奥の扉の向こうは厨房になっております。そこからは全て使用人の場所になりますので、お嬢様はお入りになってはいけません。
二階の説明をしますと、階段を上がってい右側の奥のお部屋は奥様のお部屋となります。左側の手前が書斎、その奥がシモン様のお部屋、さらに奥が旦那様のお部屋。廊下の角の向こうが客間になります。お嬢様のお部屋の向かいは空き部屋です」
説明を受けながら自室へ戻る。扉を閉めた途端、ノエルは急にきりっとした雰囲気になった。
「あのような普通のお食事に感動するべきではございません。どこぞの晩餐会に呼ばれたというならまだしも」
「ごめんなさい。ちゃんとしたご飯は久しぶりすぎて、つい」
「お食事、ですよ。お嬢様。まずは、言葉遣いからですわね」
ノエルは呆れたような声色で言った。
「まずは、一人称ですが、わたし、ではなく、わたくし、に直してください。奥様に申し上げたあの言葉も相応しくありません。お母様、心配をおかけして申し訳ございません、ですよ。美味しい、なんて直接的な表現もいけません。美味しゅうございます、とか、このお味は気に入りましたわ、とか、そんなふうにおっしゃってください」
「え、え、もう行儀見習いは始まってるの?」
「もちろんです。なるべく早く貴族のご令嬢らしくになっていただかなくてはいけませんから」
「でも、始めるなら始めるって、言ってくれればいいのに……」
すると、ノエルはずいっと顔を近づけて睨んできた。