第二章 レーブジャルダン家 第六話
文字数 3,005文字
昼食の後もシモンの講義は続いた。日が翳ってしまうと、ようやく解放される。夕食は下の部屋で食べたが、覚えたばかりのテーブルマナー通りに手を動かすのに必死で、子爵夫妻からまだ具合が悪いのかと心配させるほどだった。
なんとか食事を終えて部屋に戻ると、ベッドに倒れこんだ。
「なんです、だらしない。早くこちらへ、就寝の準備をいたします」
ノエルに促されて、のろのろと立ち上がる。衣服を脱がせてもらい、ドレッサーに座って髪を解いてもらう。そうしてもらっていると、いくらか心が落ち着いた。
「それにしてもお兄様は何でもよく知っているのね。まるで先生みたいだわ」
「当然です。シモン様はこの地方一の秀才で、都の大学で学んでいたのです。ここらで雇える家庭教師なんぞより、よっぽど博識です」
「あなたも、礼儀作法にとても詳しいけれど、どこかで学んだのかしら?」
「去年一年、都で仕立屋をしている兄の手伝いをしながら、都の貴族のご令嬢方を見てきたのです」
「わたくしに教えるためにのためにわざわざ都へ行ったの?」
「ええ、シモン様にお暇をもらって」
ノエルの目はリゼットよりもシモンに向いているようだった。シモンにしても、どうも純粋に妹のためを思って教育を施しているようには感じられない。こういうことはよくわかる。それこそファンたちが同期の話目当てでお茶会に来ているとわかってしまうように。
(ノエルったら、お嬢様たるわたしにあたりがキツイわよね。普通は、それこそ芝居で出てくる侍女とかそういう人って、もっと畏まってるものだけど。ただの侍女ではなくて、教育係だからなのかしら。
お兄様も、優しい兄って感じじゃないよなぁ。大抵妹には甘いものなんじゃないの? それともこんなものなのかな、わたし兄弟がいないからわからないや)
想像の中の優雅な貴族令嬢は、従順で忠誠心のある侍女に傅かれ、優しい兄に可愛がられていたのだが。
(それにしても、せっかく貴族のお嬢様としてのんびり生活できると思ったのに、勉強に追われることになるなんて。レッスンと稽古がお勉強に変わっただけで、前の人生と変わらないわ。でもまぁ、身支度とか掃除とか身の回りの事はノエルに任せていていいんだから、楽だけどね)
理想と現実が乖離しているのはよくあることだ。しかも忙しなさは歌劇団にいた時と比べたら多少ましである。そもそも舞台に立たないのだから、肉体の疲労は少ない。
依然と比べたら、今の方がずっといい。そう納得して、リゼットは目を閉じた。
翌日、朝食は似たり寄ったりだったが、肉が魚になり、スープの味が変わっていた。こんなふうにバランスよく、しかも毎日少しづつ違う料理が出るなんて、リゼットは感動したが、ノエルとシモンに注意されないように、清ました顔でナイフとフォークを動かした。少々ぎこちないかもしれないが、概ね教えられたとおりにできている。
「医者は何時に来るのかね」
子爵がノエルに訊ねた。
「十時にいらっしゃいます」
「そうか。なら食事が終わったら部屋で待っていなさい。なるべく静かにしているのだよ」
「父上、医者が来るまで時間があります。リゼットにはいろいろと教えることがありますから、書斎で勉強をさせますよ」
シモンが言うと、子爵夫妻は顔をしかめた。
「まぁ、階段から落ちて大けがをした妹を労わろうとは思わないの? そんな冷たい子に育てた覚えはありませんよ」
「そうだぞ。それに何をそんなに急いで詰め込む必要があるんだ。教えることが多いというが、そんなの、毎日少しずつでいいではないか。本来は庭で駆けまわったり、猟犬を連れて散歩に行くことが好きな元気な子なのに、勉強勉強と屋敷に閉じ込めておくのは良くないぞ。
リゼット、今は怪我が心配だから、なるべく安静にしていろと言ったが、今日の診察の結果で何もなければ、もとのように過ごして構わないからな。部屋に閉じこもっていなくてもいいんだぞ。庭でだったら走り回ってもいいし、ノエルと一緒なら、街に出かけてもいいんだからな」
「そうよ。わたくしは午後は孤児院へ行くから、良かったら一緒に来ないこと? 子供たちと遊ぶのが楽しみだったでしょう」
「父上、母上、そうやって甘やかすから、いつまでも貴族らしくなれないのです。他の貴族たちから笑いものになりますよ」
「他の貴族といったって、この地方に住んでいるのは、我が家を含めて2,3家しかいないし、集まることは稀じゃないか。親戚の集まりだって、年末年始しかない。それまでたっぷり時間はあるんだから、急ぐ必要はない」
「ここはのんびりした土地柄だから、礼儀作法だなんだとか、都のように口うるさくいう人もいないでしょう。よっぽどひどいというなら話は別だけど、ほら、こうして綺麗にお食事もできているんだし」
「……お二人がそんなことだから、いつまでたっても我が家はこのありさまで、わたしはうだつが上がらないんだ。孤児院? 物好きなことで! 貧乏人に施しをして、慈悲深い貴族の夫婦だと愉悦に浸っている。ああ、まったく馬鹿げたことですよ」
「なんだと!」
子爵は机をたたいて立ち上がった。一触即発の様相となり、極力おとなしくしていたリゼットは思わず割って入った。
「お兄様もお父様も喧嘩はおやめになって。お父様、お医者様が来るまでお部屋でお大人しくしていますけど、本を読むくらいならいいですわよね。お兄様からこの国の歴史とか、色々教えていただいて、とても興味深いのです。ですからベッドに横になって、本を読むことを許してくださる?」
「そうか? それならいいが、だが無理をしてはいけないよ」
「もちろんですわ。お兄様、今日わたくしが読む本を選んでお部屋に持ってきてくださるかしら」
そう、シモンを促してリゼットは食事の間から出た。
シモンは不機嫌に黙り込んで、階段を上がった。リゼットは先に部屋に戻る。ノエルにもう一度ネグリジェに着替えさせてもらい、ローブを羽織ってベッドに横になる。すぐにシモンが本をどっさり持ってやってきた。
「ちょっと待って。勉強の前に確認したいことがあるの」
リゼットはずいっと差し出された本を押し返した。思わず言葉が戻ってしまったが、ノエルに咎められても無視した。
「さっきの話だと、こんなことする必要ないみたいなんだけど。なんでこんなにわたしにやらせるの? それも急いで」
「お前は父上と母上の言うことを真に受けているのか。一生田舎貴族で終わるならいいが、都へ行くなら通用しないだろう。そのために教えているんだ」
「都なんかに行く予定があるの? わたしは行きたくないんだけど。もう、ここでのんびり田舎貴族として生きていくつもりよ」
「なんだと。お前はこんな田舎で一生を終えるつもりか、もっといい暮らしがしたいとか、高みを目指したいとか、そういう気概はないのか」
「気概とか、そういうのもういいの。せっかく生まれ変わったんだから、まったり気楽に過ごしたいのよ。勉強でもレッスンでも、とにかくいろいろな努力に追われる日々は嫌よ」
「なんて怠け者だ。聞いて呆れる」
「シモン様はお嬢様のためにしているのですよ」
二人はあくまでもっと高尚な礼儀作法と教養を身に着けさせたいらしい。
「いいえ! 必要以上の講義も行儀作法もご免被るわ。もっともっとなんて、向上心ももちません。ここで生きていきます」
リゼットはきっぱりと拒絶した。
なんとか食事を終えて部屋に戻ると、ベッドに倒れこんだ。
「なんです、だらしない。早くこちらへ、就寝の準備をいたします」
ノエルに促されて、のろのろと立ち上がる。衣服を脱がせてもらい、ドレッサーに座って髪を解いてもらう。そうしてもらっていると、いくらか心が落ち着いた。
「それにしてもお兄様は何でもよく知っているのね。まるで先生みたいだわ」
「当然です。シモン様はこの地方一の秀才で、都の大学で学んでいたのです。ここらで雇える家庭教師なんぞより、よっぽど博識です」
「あなたも、礼儀作法にとても詳しいけれど、どこかで学んだのかしら?」
「去年一年、都で仕立屋をしている兄の手伝いをしながら、都の貴族のご令嬢方を見てきたのです」
「わたくしに教えるためにのためにわざわざ都へ行ったの?」
「ええ、シモン様にお暇をもらって」
ノエルの目はリゼットよりもシモンに向いているようだった。シモンにしても、どうも純粋に妹のためを思って教育を施しているようには感じられない。こういうことはよくわかる。それこそファンたちが同期の話目当てでお茶会に来ているとわかってしまうように。
(ノエルったら、お嬢様たるわたしにあたりがキツイわよね。普通は、それこそ芝居で出てくる侍女とかそういう人って、もっと畏まってるものだけど。ただの侍女ではなくて、教育係だからなのかしら。
お兄様も、優しい兄って感じじゃないよなぁ。大抵妹には甘いものなんじゃないの? それともこんなものなのかな、わたし兄弟がいないからわからないや)
想像の中の優雅な貴族令嬢は、従順で忠誠心のある侍女に傅かれ、優しい兄に可愛がられていたのだが。
(それにしても、せっかく貴族のお嬢様としてのんびり生活できると思ったのに、勉強に追われることになるなんて。レッスンと稽古がお勉強に変わっただけで、前の人生と変わらないわ。でもまぁ、身支度とか掃除とか身の回りの事はノエルに任せていていいんだから、楽だけどね)
理想と現実が乖離しているのはよくあることだ。しかも忙しなさは歌劇団にいた時と比べたら多少ましである。そもそも舞台に立たないのだから、肉体の疲労は少ない。
依然と比べたら、今の方がずっといい。そう納得して、リゼットは目を閉じた。
翌日、朝食は似たり寄ったりだったが、肉が魚になり、スープの味が変わっていた。こんなふうにバランスよく、しかも毎日少しづつ違う料理が出るなんて、リゼットは感動したが、ノエルとシモンに注意されないように、清ました顔でナイフとフォークを動かした。少々ぎこちないかもしれないが、概ね教えられたとおりにできている。
「医者は何時に来るのかね」
子爵がノエルに訊ねた。
「十時にいらっしゃいます」
「そうか。なら食事が終わったら部屋で待っていなさい。なるべく静かにしているのだよ」
「父上、医者が来るまで時間があります。リゼットにはいろいろと教えることがありますから、書斎で勉強をさせますよ」
シモンが言うと、子爵夫妻は顔をしかめた。
「まぁ、階段から落ちて大けがをした妹を労わろうとは思わないの? そんな冷たい子に育てた覚えはありませんよ」
「そうだぞ。それに何をそんなに急いで詰め込む必要があるんだ。教えることが多いというが、そんなの、毎日少しずつでいいではないか。本来は庭で駆けまわったり、猟犬を連れて散歩に行くことが好きな元気な子なのに、勉強勉強と屋敷に閉じ込めておくのは良くないぞ。
リゼット、今は怪我が心配だから、なるべく安静にしていろと言ったが、今日の診察の結果で何もなければ、もとのように過ごして構わないからな。部屋に閉じこもっていなくてもいいんだぞ。庭でだったら走り回ってもいいし、ノエルと一緒なら、街に出かけてもいいんだからな」
「そうよ。わたくしは午後は孤児院へ行くから、良かったら一緒に来ないこと? 子供たちと遊ぶのが楽しみだったでしょう」
「父上、母上、そうやって甘やかすから、いつまでも貴族らしくなれないのです。他の貴族たちから笑いものになりますよ」
「他の貴族といったって、この地方に住んでいるのは、我が家を含めて2,3家しかいないし、集まることは稀じゃないか。親戚の集まりだって、年末年始しかない。それまでたっぷり時間はあるんだから、急ぐ必要はない」
「ここはのんびりした土地柄だから、礼儀作法だなんだとか、都のように口うるさくいう人もいないでしょう。よっぽどひどいというなら話は別だけど、ほら、こうして綺麗にお食事もできているんだし」
「……お二人がそんなことだから、いつまでたっても我が家はこのありさまで、わたしはうだつが上がらないんだ。孤児院? 物好きなことで! 貧乏人に施しをして、慈悲深い貴族の夫婦だと愉悦に浸っている。ああ、まったく馬鹿げたことですよ」
「なんだと!」
子爵は机をたたいて立ち上がった。一触即発の様相となり、極力おとなしくしていたリゼットは思わず割って入った。
「お兄様もお父様も喧嘩はおやめになって。お父様、お医者様が来るまでお部屋でお大人しくしていますけど、本を読むくらいならいいですわよね。お兄様からこの国の歴史とか、色々教えていただいて、とても興味深いのです。ですからベッドに横になって、本を読むことを許してくださる?」
「そうか? それならいいが、だが無理をしてはいけないよ」
「もちろんですわ。お兄様、今日わたくしが読む本を選んでお部屋に持ってきてくださるかしら」
そう、シモンを促してリゼットは食事の間から出た。
シモンは不機嫌に黙り込んで、階段を上がった。リゼットは先に部屋に戻る。ノエルにもう一度ネグリジェに着替えさせてもらい、ローブを羽織ってベッドに横になる。すぐにシモンが本をどっさり持ってやってきた。
「ちょっと待って。勉強の前に確認したいことがあるの」
リゼットはずいっと差し出された本を押し返した。思わず言葉が戻ってしまったが、ノエルに咎められても無視した。
「さっきの話だと、こんなことする必要ないみたいなんだけど。なんでこんなにわたしにやらせるの? それも急いで」
「お前は父上と母上の言うことを真に受けているのか。一生田舎貴族で終わるならいいが、都へ行くなら通用しないだろう。そのために教えているんだ」
「都なんかに行く予定があるの? わたしは行きたくないんだけど。もう、ここでのんびり田舎貴族として生きていくつもりよ」
「なんだと。お前はこんな田舎で一生を終えるつもりか、もっといい暮らしがしたいとか、高みを目指したいとか、そういう気概はないのか」
「気概とか、そういうのもういいの。せっかく生まれ変わったんだから、まったり気楽に過ごしたいのよ。勉強でもレッスンでも、とにかくいろいろな努力に追われる日々は嫌よ」
「なんて怠け者だ。聞いて呆れる」
「シモン様はお嬢様のためにしているのですよ」
二人はあくまでもっと高尚な礼儀作法と教養を身に着けさせたいらしい。
「いいえ! 必要以上の講義も行儀作法もご免被るわ。もっともっとなんて、向上心ももちません。ここで生きていきます」
リゼットはきっぱりと拒絶した。