第一章 労多くして功少なし 第五話
文字数 2,961文字
「ファンが増えたんじゃないよ。太い
秋月怜央 が去った後で、紫貴 ゆうやが耳打ちしてきた。おばさまと呼ばれる裕福なタニマチが付けば、チケットを大量に買ってくれる。
「何にせよ、いいことじゃない。熱心に応援してくれるファンの方に恵まれたってことだもんね」
彼女の薄暗い嫉妬心を振り払うように、敢て明るく答えた。紫貴ゆうやも毎回かなりチケットをさばいていた。夢園 さゆりのような同期を助けるのはいつも彼女の役目だった。その役目を奪われたことも面白くないのだろう。それもこれまで自分が助けていた同期に。
そんな話をしていると、晴日 つばめが声をかけてきた。聞けば、チケットを少し手伝ってほしいとのことだった。
「すみません。同期もみんないっぱいいっぱいで、えっちゃんさんにお願いするしかなくて」
心底申し訳なさそうに申し出る。こういうことは日常茶飯事とはいえ、やはり誰かにお願いするのはどうしても引け目を感じるし、プライドが少し傷つく。
「……わかった。私も少しなら助けられるから」
彼女は舞白美湖のように社交的な性格ではないから、他に頼れる上級生がいないのだろう。頼られると放っておけない。紫貴ゆうやは、呆れた視線を送ってくる。自分のチケットもさばききれないのに、後輩を助けるなんて。
(助けてもらえるのは全部で8枚だったから、そのうち3枚……いや4枚をつばめちゃんのチケットにしても、わたしの方は何とかなるんじゃないかな)
と、一応頭の中で計算をして、恐縮しきりの晴日つばめに、気にしないで、なんて言いながら笑顔で手を振った。
「えっちゃんホントお人好しだよね」
「いや、そうかな? でも、わたしももう研7だからさ。上級生らしく下級生の力になりたいじゃん」
「はぁ……。まぁいいけど。ホント厳しかったら言ってね。わたしの所も少しなら引き受けられるよ」
「ありがとう。本っ当にいつも感謝してます」
両手を胸の前で合わせて、本当の部分を強調して礼を言う。
本日の本公演の稽古は終了したが、研7以下の生徒は残って新人公演の稽古がある。
「やはりあの方のお側には、あのお嬢様のような人がふさわしいのだわ。だってあんなに上品で堂々としていて……何より、あんなに美しいんですもの!」
絢羽莉愛 演じるヒロインは、主人公の婚約者を目にして、自信を喪失し、泣きながら去ってしまう。
「そんなことは……あ、待って……」
夢園さゆり演じる乳母は彼女を慰めようと、去ってゆく背に手を伸ばす。
「なんてこと! 私のお嬢様の方が、あのご令嬢よりよほど……」
実はヒロインは身分の王家に連なる貴族の娘なのだが、故あって出自を隠している。その真実を知っている乳母が、ヒロインの心情を慮りながらも、それを匂わせる一言で、この場面は終わる。
そこで一旦区切って、演出家のダメ出しがある。この場面に出ていた人間が稽古場の真ん中に集まる。演出家は新人公演担当で、本公演の演出助手をしている人間、こちらも新人ということになる。
「乳母は年取った芝居に引っ張られてるから、もうちょっと素直に感情を出すようにして」
「はい」
主要な人物には一人一人に指摘がある。みんな背筋を伸ばしていちいち返事をする。
「星華はさ、全然だめだよ。皇太子の婚約者は、大貴族の娘で、生まれながらの淑女だよ。でもまったくそうは見えない。上品で堂々としていて、人々を圧倒するような、ヒロインが絶望しちゃうような美しさの持ち主なのに、まるで説得力がない。ただ立ってるだけ、ただ歩くだけじゃダメなんだよ。もっと本役から教えてもらったり、研究して」
かなり厳しい指摘があったのは、主人公の婚約者を演じる星華唯 。研3で準ヒロインを演じる。
彼女は去年まで男役として舞台に立っていたが、今年から娘役に転向した。時々こうして男役をやめて娘役になる生徒はいる。逆はほとんどない。男性の振りをするのには技術がいるが、女性の役はさして技術が必要ないと思われているのだろう。
実際、それは半分くらい間違った認識だ。なぜなら男役として舞台に立つために、大股で歩くとか、足を開いて座るとか、胸を張るとか、そういうことを意識して過ごすと、その所作がしみついてしまうことがある。男役の所作がなかなか抜けず、娘役の格好をすると、まるで女装した男性のように見えてしまう。
星華唯が言われているのも、ようはそういうことだと、夢園さゆりは理解している。登場した時の歩き方、舞台での立ち方、全てが男役っぽくて、なんだかごつい感じがするのだ。彼女の容姿が十分美しかったとしても、それを打ち消してしまうくらい違和感がある。そこを何とかするべきだということだ。
その後、何度か同じ場面を繰り返し練習した。演出家は最後まで星華唯の出来栄えに満足しなかった。
「だから、そうじゃないって。大股でどすどす歩くな!」
演出家の指導も怒号に近くなっていく。星華唯は、はい、と応えて懸命に改善しようとしているが、歌舞校から数えて四年間で沁みついた男役の所作は、一朝一夕には消えない。
結局、深夜まで稽古を続けて、その日はそれまでとなった。誰も言わないが、後半は星華唯のための稽古となっていた。自分が不出来なせいで、まだ研3の下級生の分際で、上級生を始め他の生徒を付き合わせた申し訳なさで、彼女は消え入りそうになっていた。
声をかけてあげるべきだろうか。夢園さゆりは迷ったが、時刻はもう11時を回っていた。早く帰らないとバスが無くなる。
(今日はもう遅いし、教えてあげるにしても、明日だよね)
急いで荷物をまとめて稽古場を後にする。
飛び乗った最終のバスは、ゆったりと発進した。バスには劇団のスポンサーである小泉銀行の中刷り広告があり、イメージガールを務める音輝めいが、銀行の制服に身を包み微笑んでいる。
(でも、わたしが教えなくても、本役さんが教えてくれるよね)
新人公演の役作りなどは本役、つまり本公演でその役を演じる生徒に相談する。そうやって上級生から学ぶのも新人公演の意義だ。星華唯の本役は音輝めいだ。そこで自分がでしゃばってはいけない。
バスがスピードを落として角を曲がる。広告の下の窓には劇団の寮が見えた。寮に住めるのは研5までと決まりがあるので、夢園さゆりは付近のアパートに一人暮らしをしている。劇場とも稽古場とも目と鼻の先にある寮を、彼女は懐かしく、また羨ましげに眺めた。
翌日の稽古場の隅で、音輝 めいに指導を仰ぐ星華唯 の姿があった。
「大貴族の娘として育ったのだから、ヒロインや他の人間とは格が違う。そういうことを意識して演じるの」
有り難いご指導をしているが、どうも的外れというか、星華唯が求めているものとはかけ離れているようだ。
音輝めいは夢園さゆりの1つ上で、歌舞校で一年一緒に過ごしたのでよく知っている。わりと成績が良く、中卒入学だが大人びていて、しっかり者だった。教え方が下手で的外れなことを言っているとは思えない。
もしかしたら、見えないところで、さんざん手取り足取り所作を教えてあげたのかもしれない。それでも直らないので、あとは本人の問題と思っているのかもしれない。敢て別の方向からのアプローチとして、心の持ちようを教えている可能性もある。
おばさま
がついたらしいよ」「何にせよ、いいことじゃない。熱心に応援してくれるファンの方に恵まれたってことだもんね」
彼女の薄暗い嫉妬心を振り払うように、敢て明るく答えた。紫貴ゆうやも毎回かなりチケットをさばいていた。
そんな話をしていると、
「すみません。同期もみんないっぱいいっぱいで、えっちゃんさんにお願いするしかなくて」
心底申し訳なさそうに申し出る。こういうことは日常茶飯事とはいえ、やはり誰かにお願いするのはどうしても引け目を感じるし、プライドが少し傷つく。
「……わかった。私も少しなら助けられるから」
彼女は舞白美湖のように社交的な性格ではないから、他に頼れる上級生がいないのだろう。頼られると放っておけない。紫貴ゆうやは、呆れた視線を送ってくる。自分のチケットもさばききれないのに、後輩を助けるなんて。
(助けてもらえるのは全部で8枚だったから、そのうち3枚……いや4枚をつばめちゃんのチケットにしても、わたしの方は何とかなるんじゃないかな)
と、一応頭の中で計算をして、恐縮しきりの晴日つばめに、気にしないで、なんて言いながら笑顔で手を振った。
「えっちゃんホントお人好しだよね」
「いや、そうかな? でも、わたしももう研7だからさ。上級生らしく下級生の力になりたいじゃん」
「はぁ……。まぁいいけど。ホント厳しかったら言ってね。わたしの所も少しなら引き受けられるよ」
「ありがとう。本っ当にいつも感謝してます」
両手を胸の前で合わせて、本当の部分を強調して礼を言う。
本日の本公演の稽古は終了したが、研7以下の生徒は残って新人公演の稽古がある。
「やはりあの方のお側には、あのお嬢様のような人がふさわしいのだわ。だってあんなに上品で堂々としていて……何より、あんなに美しいんですもの!」
「そんなことは……あ、待って……」
夢園さゆり演じる乳母は彼女を慰めようと、去ってゆく背に手を伸ばす。
「なんてこと! 私のお嬢様の方が、あのご令嬢よりよほど……」
実はヒロインは身分の王家に連なる貴族の娘なのだが、故あって出自を隠している。その真実を知っている乳母が、ヒロインの心情を慮りながらも、それを匂わせる一言で、この場面は終わる。
そこで一旦区切って、演出家のダメ出しがある。この場面に出ていた人間が稽古場の真ん中に集まる。演出家は新人公演担当で、本公演の演出助手をしている人間、こちらも新人ということになる。
「乳母は年取った芝居に引っ張られてるから、もうちょっと素直に感情を出すようにして」
「はい」
主要な人物には一人一人に指摘がある。みんな背筋を伸ばしていちいち返事をする。
「星華はさ、全然だめだよ。皇太子の婚約者は、大貴族の娘で、生まれながらの淑女だよ。でもまったくそうは見えない。上品で堂々としていて、人々を圧倒するような、ヒロインが絶望しちゃうような美しさの持ち主なのに、まるで説得力がない。ただ立ってるだけ、ただ歩くだけじゃダメなんだよ。もっと本役から教えてもらったり、研究して」
かなり厳しい指摘があったのは、主人公の婚約者を演じる
彼女は去年まで男役として舞台に立っていたが、今年から娘役に転向した。時々こうして男役をやめて娘役になる生徒はいる。逆はほとんどない。男性の振りをするのには技術がいるが、女性の役はさして技術が必要ないと思われているのだろう。
実際、それは半分くらい間違った認識だ。なぜなら男役として舞台に立つために、大股で歩くとか、足を開いて座るとか、胸を張るとか、そういうことを意識して過ごすと、その所作がしみついてしまうことがある。男役の所作がなかなか抜けず、娘役の格好をすると、まるで女装した男性のように見えてしまう。
星華唯が言われているのも、ようはそういうことだと、夢園さゆりは理解している。登場した時の歩き方、舞台での立ち方、全てが男役っぽくて、なんだかごつい感じがするのだ。彼女の容姿が十分美しかったとしても、それを打ち消してしまうくらい違和感がある。そこを何とかするべきだということだ。
その後、何度か同じ場面を繰り返し練習した。演出家は最後まで星華唯の出来栄えに満足しなかった。
「だから、そうじゃないって。大股でどすどす歩くな!」
演出家の指導も怒号に近くなっていく。星華唯は、はい、と応えて懸命に改善しようとしているが、歌舞校から数えて四年間で沁みついた男役の所作は、一朝一夕には消えない。
結局、深夜まで稽古を続けて、その日はそれまでとなった。誰も言わないが、後半は星華唯のための稽古となっていた。自分が不出来なせいで、まだ研3の下級生の分際で、上級生を始め他の生徒を付き合わせた申し訳なさで、彼女は消え入りそうになっていた。
声をかけてあげるべきだろうか。夢園さゆりは迷ったが、時刻はもう11時を回っていた。早く帰らないとバスが無くなる。
(今日はもう遅いし、教えてあげるにしても、明日だよね)
急いで荷物をまとめて稽古場を後にする。
飛び乗った最終のバスは、ゆったりと発進した。バスには劇団のスポンサーである小泉銀行の中刷り広告があり、イメージガールを務める音輝めいが、銀行の制服に身を包み微笑んでいる。
(でも、わたしが教えなくても、本役さんが教えてくれるよね)
新人公演の役作りなどは本役、つまり本公演でその役を演じる生徒に相談する。そうやって上級生から学ぶのも新人公演の意義だ。星華唯の本役は音輝めいだ。そこで自分がでしゃばってはいけない。
バスがスピードを落として角を曲がる。広告の下の窓には劇団の寮が見えた。寮に住めるのは研5までと決まりがあるので、夢園さゆりは付近のアパートに一人暮らしをしている。劇場とも稽古場とも目と鼻の先にある寮を、彼女は懐かしく、また羨ましげに眺めた。
翌日の稽古場の隅で、
「大貴族の娘として育ったのだから、ヒロインや他の人間とは格が違う。そういうことを意識して演じるの」
有り難いご指導をしているが、どうも的外れというか、星華唯が求めているものとはかけ離れているようだ。
音輝めいは夢園さゆりの1つ上で、歌舞校で一年一緒に過ごしたのでよく知っている。わりと成績が良く、中卒入学だが大人びていて、しっかり者だった。教え方が下手で的外れなことを言っているとは思えない。
もしかしたら、見えないところで、さんざん手取り足取り所作を教えてあげたのかもしれない。それでも直らないので、あとは本人の問題と思っているのかもしれない。敢て別の方向からのアプローチとして、心の持ちようを教えている可能性もある。