第一章 労多くして功少なし 第八話
文字数 2,964文字
まだ研3の時に、全国ツアー公演があり、演者が舞台を下りて客席の通路へ行く演出があった。その時、たまたま夢園 さゆりのすぐ目の前の座席にいたのが立川春海という女性だった。もちろんこちらは彼女のことなど覚えていなかった。ただ、彼女はその時に見た夢園さゆりが忘れられなかったようで、後日ファンレターをくれた。
——宝川歌劇は初めて見たのですが、現実世界とは思えない夢のような世界が広がっていて、感動しました。そして皆さんが客席に降りてきたときに、夢園さゆりさんが目の前に来てくれて、本当に可愛らしくて、妖精さんが来た! と思ったくらいでした。パンフレットの写真の中から探して、それでもはっきりとわからなかったので、劇団に問い合せして、思い切って手紙を書きました。
その後夢園さんの事を調べて、舞台でも普段でも、いつも可愛くしていることとか、ダンスがお上手とか、そういうことを知って、ますます好きになりました。今はDVDを見たりして、夢園さんを探すのが楽しみになっています。ご迷惑でなければ、これからも応援させてほしいです。
こんなに熱烈なファンレターが来るなんて。目を通して、思わず手紙を胸に抱いたのを今でも憶えている。
ただ、遠方に住んでいることと、まだ若い会社員であることから、頻繁に観劇できないようだった。チケットを沢山買ってくれるわけではない。だが深く印象に残っている。その彼女は、今回のお茶会には参加できなかった。目の前には28人のファンがいて、その一人一人が大切には違いなかったが、どういうわけかこの日は、無性に春海さんが恋しくなっていた。
「千秋楽まで頑張りますので、どうぞよろしくお願いいたします。東京公演も是非いらしてください」
今後もよろしく、と笑顔でお願いして、お茶会はお開きとなった。
群馬での公演が終わると、次は東京へ移動し、東京の舞台で二、三日舞台稽古をしてから初日が開ける。
丁度東京への移動日に、藤組の次の公演が発表になった。組を三つに分けて、トップスター率いる別箱、若手の男役主演の別箱、そして二番手男役のコンサートを行う。夢園さゆりはトップスターの別箱に配された。
「ムカつく! 超ムカつく!」
東京公演の舞台稽古の帰り道で、穏やかならぬ言葉が聞こえてきた。思わず立ち止まって声のした前方を探る。そこにいたのは紅乃美咲 。ファンへのお礼状や物販の写真を撮るため、舞台稽古を見学していたファンの代表と一緒に歩いている。
「毎日毎日化粧前に花飾って、キャラメルモカフラッペ買ってきてやって、わたしがこれだけ尽くしてやってるっていうのに、なんであいつは私をコンサートに選ばないわけ!」
彼女はコンサートの開催が決まっている二番手男役のお手伝いをしている。気に入られようと色々努力をしていたようだが、主演者がある程度指名できるコンサートメンバーには選ばれず、若手の別箱に回った。コンサートメンバーに選ばれたのは絢羽莉愛 だった。娘役は一人だけだから、きっとデュエットを歌ったり、踊ったり、かなりおいしいポジションになるだろう。
「これまでやってきたこと、全部無駄じゃない! マジふざけんなよあいつ!」
代表に宥められてもなお、怒りが収まらないらしい。後ろに夢園さゆりがいるとは気が付いていないようだった。
「……まぁ、下心があるのが透けて見えちゃったのかもね。そういうのって、以外とよくわかるから」
一緒にいた三島さんは苦笑していた。その通りだ。だから三島さんがチケット目当てで自分についていることも、ファンのうち何人かが同期の話を聞くためにお茶会に来ていたことも、よくわかる。
上級生である二番手男役をあいつ呼ばわりして口汚く罵るなど、上下関係の厳しい宝川の、品行方正であるべしと言われる生徒として、あるまじきことだ。だが、夢園さゆりはそれを吹聴するつもりはなかった。もともと事なかれ主義であったし、ほんの少しだが、悪態をつきたくなるのもわかる。
役は劇団に決められ、娘役は淑やかでおとなしく、男役を立てるカスミソウであれと求められる中では、トップ娘役になるという野心を果たすため、能動的にできる努力は、路線男役に取り入るくらいしかない。コンサートのメンバーに選ばれたら、その他大勢より目立って多くのファンに認知してもらえるし、お茶会などで話題にしてもらうだけでも、その男役のファンに覚えてもらえる。
絢羽莉愛にしても同じだ。一昨年、コンサートを開く二番手男役のフォトブックが発売になった。その中で、恋人とデートをしているようなシュチュエーションの写真があった。その相手役として彼女が登場して以降、なんとなく役付きが良くなっている。
ひたすら娘役力を高めても、劇団からの扱いが変わるわけではない。褒めてくれる人はいても、アンサンブルから抜け出せるわけでも、キラキラの衣装を来て前の方で踊れるわけでもないのだ。つまり無駄な努力だが、これをするのが娘役の最低条件。野心がある人は、それをこなしてなお、路線男役相手へのお慕い芸に精を出し、媚を売って取り入ろうとする。
紅乃美咲は路線娘役だからコンサートに選ばれなくても、別箱で良い役が回ってくるのではないか。だが、別箱でヒロインをするのは星華唯と決まっていた。おまけに勢いのある氷華 きりなも同じ別箱に配されている。役付きがどうなるか全くわからない。
しばらく歩いて、ビルの角を曲がろうとするとき、また話し声が聞こえてきた。
「トップさんとか、トップ娘役さんとかの手伝いをすればいいじゃない。そうすればもっと意義のあることが学べるし、気に入ってもらえたら、道が開けるかもしれない」
「お母さん。えっちゃんさんは娘役の鑑って、他の上級生立からも一目置かれてる。実際、かつらやアクセサリーのセンスもいいし、スカートさばきだって上手。わたしのお化粧どんどん良くなってるでしょう? えっちゃんさんに見てもらっているからだよ。えっちゃんさんのお手伝いで学ぶことはすごく多いの。わたしが娘役としてやっていくのに必要なの」
晴日つばめの声だった。一緒にいるのは母親だろう。娘役に三島さんのようなファンの代表がつくことは少なく、大抵は母親などがその役割を担っている。
「あんな冴えない娘役にくっついて娘役力を磨いても、トップになれなきゃ意味ないでしょうが! 何のために歌舞校に入れたと思ってるの。本当は男役にするつもりだったけど、あんた背が足りないから。娘役ならトップ以外は価値がないのよ。退団した後だって、トップ娘役以外は見る影もないんだから」
彼女の母親はいわゆるステージママで、娘がトップ娘役になることを強く望んでいるようだった。
二人はなおも言い争いながら去っていった。万一鉢合わせしたら気まずいので、夢園さゆりは角を曲がる手前でしばらく立ち止っていた。
「……つばめちゃんは下心ないみたいだね」
そうだ。ステージママに反抗してまで、冴えない非路線娘役をお手伝いをしてくれるのだから。
翌日の舞台稽古は本番と同じように全編を通した。当たり前だが紅乃美咲も晴日つばめも、いつもと同じように、何食わぬ顔で楽屋に現れた。気まずさを抱いて、二人に対して挙動不審になってしまったのは夢園さゆりの方だった。
——宝川歌劇は初めて見たのですが、現実世界とは思えない夢のような世界が広がっていて、感動しました。そして皆さんが客席に降りてきたときに、夢園さゆりさんが目の前に来てくれて、本当に可愛らしくて、妖精さんが来た! と思ったくらいでした。パンフレットの写真の中から探して、それでもはっきりとわからなかったので、劇団に問い合せして、思い切って手紙を書きました。
その後夢園さんの事を調べて、舞台でも普段でも、いつも可愛くしていることとか、ダンスがお上手とか、そういうことを知って、ますます好きになりました。今はDVDを見たりして、夢園さんを探すのが楽しみになっています。ご迷惑でなければ、これからも応援させてほしいです。
こんなに熱烈なファンレターが来るなんて。目を通して、思わず手紙を胸に抱いたのを今でも憶えている。
ただ、遠方に住んでいることと、まだ若い会社員であることから、頻繁に観劇できないようだった。チケットを沢山買ってくれるわけではない。だが深く印象に残っている。その彼女は、今回のお茶会には参加できなかった。目の前には28人のファンがいて、その一人一人が大切には違いなかったが、どういうわけかこの日は、無性に春海さんが恋しくなっていた。
「千秋楽まで頑張りますので、どうぞよろしくお願いいたします。東京公演も是非いらしてください」
今後もよろしく、と笑顔でお願いして、お茶会はお開きとなった。
群馬での公演が終わると、次は東京へ移動し、東京の舞台で二、三日舞台稽古をしてから初日が開ける。
丁度東京への移動日に、藤組の次の公演が発表になった。組を三つに分けて、トップスター率いる別箱、若手の男役主演の別箱、そして二番手男役のコンサートを行う。夢園さゆりはトップスターの別箱に配された。
「ムカつく! 超ムカつく!」
東京公演の舞台稽古の帰り道で、穏やかならぬ言葉が聞こえてきた。思わず立ち止まって声のした前方を探る。そこにいたのは
「毎日毎日化粧前に花飾って、キャラメルモカフラッペ買ってきてやって、わたしがこれだけ尽くしてやってるっていうのに、なんであいつは私をコンサートに選ばないわけ!」
彼女はコンサートの開催が決まっている二番手男役のお手伝いをしている。気に入られようと色々努力をしていたようだが、主演者がある程度指名できるコンサートメンバーには選ばれず、若手の別箱に回った。コンサートメンバーに選ばれたのは
「これまでやってきたこと、全部無駄じゃない! マジふざけんなよあいつ!」
代表に宥められてもなお、怒りが収まらないらしい。後ろに夢園さゆりがいるとは気が付いていないようだった。
「……まぁ、下心があるのが透けて見えちゃったのかもね。そういうのって、以外とよくわかるから」
一緒にいた三島さんは苦笑していた。その通りだ。だから三島さんがチケット目当てで自分についていることも、ファンのうち何人かが同期の話を聞くためにお茶会に来ていたことも、よくわかる。
上級生である二番手男役をあいつ呼ばわりして口汚く罵るなど、上下関係の厳しい宝川の、品行方正であるべしと言われる生徒として、あるまじきことだ。だが、夢園さゆりはそれを吹聴するつもりはなかった。もともと事なかれ主義であったし、ほんの少しだが、悪態をつきたくなるのもわかる。
役は劇団に決められ、娘役は淑やかでおとなしく、男役を立てるカスミソウであれと求められる中では、トップ娘役になるという野心を果たすため、能動的にできる努力は、路線男役に取り入るくらいしかない。コンサートのメンバーに選ばれたら、その他大勢より目立って多くのファンに認知してもらえるし、お茶会などで話題にしてもらうだけでも、その男役のファンに覚えてもらえる。
絢羽莉愛にしても同じだ。一昨年、コンサートを開く二番手男役のフォトブックが発売になった。その中で、恋人とデートをしているようなシュチュエーションの写真があった。その相手役として彼女が登場して以降、なんとなく役付きが良くなっている。
ひたすら娘役力を高めても、劇団からの扱いが変わるわけではない。褒めてくれる人はいても、アンサンブルから抜け出せるわけでも、キラキラの衣装を来て前の方で踊れるわけでもないのだ。つまり無駄な努力だが、これをするのが娘役の最低条件。野心がある人は、それをこなしてなお、路線男役相手へのお慕い芸に精を出し、媚を売って取り入ろうとする。
紅乃美咲は路線娘役だからコンサートに選ばれなくても、別箱で良い役が回ってくるのではないか。だが、別箱でヒロインをするのは星華唯と決まっていた。おまけに勢いのある
しばらく歩いて、ビルの角を曲がろうとするとき、また話し声が聞こえてきた。
「トップさんとか、トップ娘役さんとかの手伝いをすればいいじゃない。そうすればもっと意義のあることが学べるし、気に入ってもらえたら、道が開けるかもしれない」
「お母さん。えっちゃんさんは娘役の鑑って、他の上級生立からも一目置かれてる。実際、かつらやアクセサリーのセンスもいいし、スカートさばきだって上手。わたしのお化粧どんどん良くなってるでしょう? えっちゃんさんに見てもらっているからだよ。えっちゃんさんのお手伝いで学ぶことはすごく多いの。わたしが娘役としてやっていくのに必要なの」
晴日つばめの声だった。一緒にいるのは母親だろう。娘役に三島さんのようなファンの代表がつくことは少なく、大抵は母親などがその役割を担っている。
「あんな冴えない娘役にくっついて娘役力を磨いても、トップになれなきゃ意味ないでしょうが! 何のために歌舞校に入れたと思ってるの。本当は男役にするつもりだったけど、あんた背が足りないから。娘役ならトップ以外は価値がないのよ。退団した後だって、トップ娘役以外は見る影もないんだから」
彼女の母親はいわゆるステージママで、娘がトップ娘役になることを強く望んでいるようだった。
二人はなおも言い争いながら去っていった。万一鉢合わせしたら気まずいので、夢園さゆりは角を曲がる手前でしばらく立ち止っていた。
「……つばめちゃんは下心ないみたいだね」
そうだ。ステージママに反抗してまで、冴えない非路線娘役をお手伝いをしてくれるのだから。
翌日の舞台稽古は本番と同じように全編を通した。当たり前だが紅乃美咲も晴日つばめも、いつもと同じように、何食わぬ顔で楽屋に現れた。気まずさを抱いて、二人に対して挙動不審になってしまったのは夢園さゆりの方だった。