第九章 エストカピタールにて 第八話
文字数 2,980文字
リハーサル、ゲネプロと、稽古は着々と進み、いよいよ初日は明日に迫っていた。シモンのおかげでチケットの売れ行きは好調だった。エスカリエからの客も続々と集まってきて、この地方都市はいつにない賑わいとなった。
リゼットも両親を初日に招待していた。もちろん移動手段も宿も確保して、チケットは総合演出監督の権限で招待券だ。もうすでに故郷を出発しているだろう。
キトリィもエストカピタールに到着した。友好事業としての興行なので、初日の夜には彼女が主催となって、劇場の関係者も参加する夜会が予定されている。
「このぶんだと、ポルトシュパルの音楽会よりも人が集まりそうですわ。それに夜会なんてずいぶん久しぶりな気がして。楽しくなってきましたわ」
「ブランシュ、わたくしたちは興行を打つ側なのだから、初日の幕が開くまで気を引き締めていないと」
ここまで頑張ってきたからこそ、浮かれるのも無理はない。しかしリゼットは夜会と聞いてもワクワクしなかった。もちろん、あの日以来ルシアンの姿を見ていないからだ。
お付きの者たち曰く、リゼットと劇場の奈落の一室に閉じ込められたあの日から、皇太子は部屋にこもってしまって、食事もあまりとらず、誰にも会いたがらないらしい。夏風邪を引いたのだと、ユーグは言っていた。
「風邪なんて、毎日こんなに暑いのにありませんわ。つまりこれは、恋煩いなんですわ。ずっと本当の恋人がわからないなんて、とぼけていらっしゃったけれど、やっとリゼットへの恋心を自覚して、それで悩ましくなっているに違いないわよ」
ブランシュは自信たっぷりに言った。たしかにきっかけはリゼットとの会話であったし、あの時、何か大きなことに気が付いたような容子をしていた。
「大丈夫よ。こういう時はお見舞いのお手紙を送ればいいの」
お見舞い。それは名案だ。リゼットはすぐに便箋二枚程度の手紙をしたためてノエルに届けさせた。
ユーグはルシアンの部屋をそっとノックして中へ入った。ルシアンは軍服のズボンとサッシュベルトに、上半身は白いサテンのシャツだけを身に着けて、ベッドの上に身を横たえていた。ユーグの足音を聞くと、けだるげに壁の方へ寝返りを打ち、手紙はチェストの上に置いておけと、言葉少なに命じた。
ユーグが手紙を置いて出て行ってしまうと、ルシアンはのろのろと起き上がった。何を隠そう、この煩悶の原因は彼なのだから、まともに顔を見れないのである。
ユーグへの恋心を自覚してから、ずっと部屋にこもって己の心と格闘していた。皇太子としての責任感が、相手が使用人でありしかも男だということを理由に、恋心を拒絶していたのだ。だが立場を捨てた一人の男としては、ユーグに恋していることに納得し、すんなりと受け入れていた。
(ユーグがわたしの従者になってからもう五年はたつが、両親やセブランやメリザンドよりも、共に過ごす時間は長かった。最初はただの使用人としか思っていなかったが、段々と弟かなにかのように思えてきて、今はもう、一番信頼できるなくてはならない存在だ。
小言を煩いと思うこともあるが、それがなければ却って物足りないし、着替えだ食事だ執務だと、こまごまと世話を焼いてくれるが、どれをとっても、とても心地いい。前の従者や他の使用人では、こうは思わない。それはやはり、いつも真心からわたしを想ってくれているからにちがいない。先ほどだって、暖かい気遣いの籠った眼差しをくれたではないか)
だが、性別と身分の壁が立ちはだかる。皇太子としては妻を迎えて世継ぎを設けるのが義務だ。そしてそれは貴族の子女に限られる。やっと本当の恋人が目の前に現れたというのに、素直に恋心を打ち明けることができないのが苦しい。
そればかりか、自らが同性を愛する人間だったとということは、ユーグばかりでなく、今後どのような出会いがあろうと、真実愛する人と共に生きることはできないことを意味する。その絶望もルシアンを苛んでいた。
(そうだ、リゼット嬢の手紙を読んでみよう。彼女の言葉はいつも私を導いてくれるから、何かこの煩悶を解決する糸口が見つかるかもしれない)
ルシアンは封筒を開いて便箋を取り出した。
——殿下、手紙をさしあげるなどという不躾な行いをお許しください。ですがずっとお加減が優れないと聞いて、心配のあまりいてもたってもいられず、こうして筆を執った次第です。
皆さんはお風邪を召したとおっしゃっていますが、わたくしにはお風邪以外に、殿下のお心を悩ますものがあるのではないかと思えてなりません。そしてそれは、あの日劇場の物置でわたくしと本当の恋人について語り合って生じたのではないかと推察しております。
(流石リゼット嬢、わたしの心を見透かしているようだ)
——殿下はやっと、ご自身の心に芽生えた恋に気が付き、求めていた本当の恋人が誰なのかわかったのでしょう。恋心を自覚したら、戸惑い、受け入れがたいと思うのは、よくあることです。そのように殿下のお心が騒いでいるということは、魂が相手を求めているということ。その魂の叫びを無理やり押し殺しては、却って自らに責め苦を課すようなものです。ご自身の心に素直になって、どうかその恋心を受け入れてください、
(そうか。やはりこの胸の切なさも、煩悶も、全て受け入れるべきなのだ)
——殿下のお立場上、恋を成就させるのに躊躇いがあるのはよくわかります。身分や世間の評判はどうしてもついて回るものですから。実際、誰もが殿下にはメリザンド様のような高貴で美しい淑女こそふさわしいと思っていることでしょう。ですがそのようなものを理由に、真実の愛を捨てるのは愚かなことです。わたくしなど、世間からの批判も多い人間ですが、それを理由に愛しい恋人に別れを告げるなど、絶対にできません。殿下も同様の覚悟を持って下さると、わたくしは信じています。
(世間の目を気にすることはないと、励ましてくれているのだな)
——もう一度しっかりとご自身と向き合って、それで心から愛しているといえるなら、思い悩むのをやめて、わたくしに思いを伝えください。殿下の本当の恋人の名呼んでください。その瞬間を私は待ち焦がれていたのですから! 初日の夜会でお待ちしております。必ずいらしてください。お目にかかるのを楽しみにしております。
(リゼット嬢はわたしが思い悩んでいるのを案じてくれていたのだな。それで相談に乗ると。確かに皇太子として同性の、しかも使用人を愛してしまったなど、おいそれと打ち明けられるものではない。それにユーグにはまだ気持ちを伝えていない。あいつがわたしと同じ気持ちを抱いているかどうか、自信がないしな。これからどうすればいいか、彼女ならきっといい相談役になってくれるはずだ)
ルシアンは目の前がサッと明るくなったような心地がして、居ても立っても居られないと、寝台から飛び起きた。そして軍服に着替えると、旅客輸送の護衛についている近衛隊士たちを監督しに行った。
皇太子が久々に部屋から出てきたので、隊士や付き人たちは皆驚いたが、いつになく生気が漲り、明るい顔をしていたので、何はともあれ元気を取り戻してよかったと思っていた。ユーグも安堵していたが、一方で一番の薬となったのがリゼットの手紙であろうことは自明で、仄暗い嫉妬を抱いた。
リゼットも両親を初日に招待していた。もちろん移動手段も宿も確保して、チケットは総合演出監督の権限で招待券だ。もうすでに故郷を出発しているだろう。
キトリィもエストカピタールに到着した。友好事業としての興行なので、初日の夜には彼女が主催となって、劇場の関係者も参加する夜会が予定されている。
「このぶんだと、ポルトシュパルの音楽会よりも人が集まりそうですわ。それに夜会なんてずいぶん久しぶりな気がして。楽しくなってきましたわ」
「ブランシュ、わたくしたちは興行を打つ側なのだから、初日の幕が開くまで気を引き締めていないと」
ここまで頑張ってきたからこそ、浮かれるのも無理はない。しかしリゼットは夜会と聞いてもワクワクしなかった。もちろん、あの日以来ルシアンの姿を見ていないからだ。
お付きの者たち曰く、リゼットと劇場の奈落の一室に閉じ込められたあの日から、皇太子は部屋にこもってしまって、食事もあまりとらず、誰にも会いたがらないらしい。夏風邪を引いたのだと、ユーグは言っていた。
「風邪なんて、毎日こんなに暑いのにありませんわ。つまりこれは、恋煩いなんですわ。ずっと本当の恋人がわからないなんて、とぼけていらっしゃったけれど、やっとリゼットへの恋心を自覚して、それで悩ましくなっているに違いないわよ」
ブランシュは自信たっぷりに言った。たしかにきっかけはリゼットとの会話であったし、あの時、何か大きなことに気が付いたような容子をしていた。
「大丈夫よ。こういう時はお見舞いのお手紙を送ればいいの」
お見舞い。それは名案だ。リゼットはすぐに便箋二枚程度の手紙をしたためてノエルに届けさせた。
ユーグはルシアンの部屋をそっとノックして中へ入った。ルシアンは軍服のズボンとサッシュベルトに、上半身は白いサテンのシャツだけを身に着けて、ベッドの上に身を横たえていた。ユーグの足音を聞くと、けだるげに壁の方へ寝返りを打ち、手紙はチェストの上に置いておけと、言葉少なに命じた。
ユーグが手紙を置いて出て行ってしまうと、ルシアンはのろのろと起き上がった。何を隠そう、この煩悶の原因は彼なのだから、まともに顔を見れないのである。
ユーグへの恋心を自覚してから、ずっと部屋にこもって己の心と格闘していた。皇太子としての責任感が、相手が使用人でありしかも男だということを理由に、恋心を拒絶していたのだ。だが立場を捨てた一人の男としては、ユーグに恋していることに納得し、すんなりと受け入れていた。
(ユーグがわたしの従者になってからもう五年はたつが、両親やセブランやメリザンドよりも、共に過ごす時間は長かった。最初はただの使用人としか思っていなかったが、段々と弟かなにかのように思えてきて、今はもう、一番信頼できるなくてはならない存在だ。
小言を煩いと思うこともあるが、それがなければ却って物足りないし、着替えだ食事だ執務だと、こまごまと世話を焼いてくれるが、どれをとっても、とても心地いい。前の従者や他の使用人では、こうは思わない。それはやはり、いつも真心からわたしを想ってくれているからにちがいない。先ほどだって、暖かい気遣いの籠った眼差しをくれたではないか)
だが、性別と身分の壁が立ちはだかる。皇太子としては妻を迎えて世継ぎを設けるのが義務だ。そしてそれは貴族の子女に限られる。やっと本当の恋人が目の前に現れたというのに、素直に恋心を打ち明けることができないのが苦しい。
そればかりか、自らが同性を愛する人間だったとということは、ユーグばかりでなく、今後どのような出会いがあろうと、真実愛する人と共に生きることはできないことを意味する。その絶望もルシアンを苛んでいた。
(そうだ、リゼット嬢の手紙を読んでみよう。彼女の言葉はいつも私を導いてくれるから、何かこの煩悶を解決する糸口が見つかるかもしれない)
ルシアンは封筒を開いて便箋を取り出した。
——殿下、手紙をさしあげるなどという不躾な行いをお許しください。ですがずっとお加減が優れないと聞いて、心配のあまりいてもたってもいられず、こうして筆を執った次第です。
皆さんはお風邪を召したとおっしゃっていますが、わたくしにはお風邪以外に、殿下のお心を悩ますものがあるのではないかと思えてなりません。そしてそれは、あの日劇場の物置でわたくしと本当の恋人について語り合って生じたのではないかと推察しております。
(流石リゼット嬢、わたしの心を見透かしているようだ)
——殿下はやっと、ご自身の心に芽生えた恋に気が付き、求めていた本当の恋人が誰なのかわかったのでしょう。恋心を自覚したら、戸惑い、受け入れがたいと思うのは、よくあることです。そのように殿下のお心が騒いでいるということは、魂が相手を求めているということ。その魂の叫びを無理やり押し殺しては、却って自らに責め苦を課すようなものです。ご自身の心に素直になって、どうかその恋心を受け入れてください、
(そうか。やはりこの胸の切なさも、煩悶も、全て受け入れるべきなのだ)
——殿下のお立場上、恋を成就させるのに躊躇いがあるのはよくわかります。身分や世間の評判はどうしてもついて回るものですから。実際、誰もが殿下にはメリザンド様のような高貴で美しい淑女こそふさわしいと思っていることでしょう。ですがそのようなものを理由に、真実の愛を捨てるのは愚かなことです。わたくしなど、世間からの批判も多い人間ですが、それを理由に愛しい恋人に別れを告げるなど、絶対にできません。殿下も同様の覚悟を持って下さると、わたくしは信じています。
(世間の目を気にすることはないと、励ましてくれているのだな)
——もう一度しっかりとご自身と向き合って、それで心から愛しているといえるなら、思い悩むのをやめて、わたくしに思いを伝えください。殿下の本当の恋人の名呼んでください。その瞬間を私は待ち焦がれていたのですから! 初日の夜会でお待ちしております。必ずいらしてください。お目にかかるのを楽しみにしております。
(リゼット嬢はわたしが思い悩んでいるのを案じてくれていたのだな。それで相談に乗ると。確かに皇太子として同性の、しかも使用人を愛してしまったなど、おいそれと打ち明けられるものではない。それにユーグにはまだ気持ちを伝えていない。あいつがわたしと同じ気持ちを抱いているかどうか、自信がないしな。これからどうすればいいか、彼女ならきっといい相談役になってくれるはずだ)
ルシアンは目の前がサッと明るくなったような心地がして、居ても立っても居られないと、寝台から飛び起きた。そして軍服に着替えると、旅客輸送の護衛についている近衛隊士たちを監督しに行った。
皇太子が久々に部屋から出てきたので、隊士や付き人たちは皆驚いたが、いつになく生気が漲り、明るい顔をしていたので、何はともあれ元気を取り戻してよかったと思っていた。ユーグも安堵していたが、一方で一番の薬となったのがリゼットの手紙であろうことは自明で、仄暗い嫉妬を抱いた。