第十章 最後のダンス 第五話
文字数 2,991文字
ユーグの隈は消えていなかった。ベッドに横になっていても、とても眠れる心情ではなかった。
ルシアンはユーグの顔を見ると非常に心配して、食事を運んでこさせて、自ら食べさせようとするほど甲斐甲斐しく世話をした。ただ、優しくされればされるほど、ユーグの胸に愛しさが募り、益々つらくなった。
そうとは知らずに、ルシアンは先ほどの出来事を話した。ローズが感想文を差し替えたのなら、きっと執務室に忍び込んだに違いない。ユーグは昨夜の不審なメイドに思い至り、そのことをルシアンに話した。
「そんな重大なことを、どうして知らせなかった」
ルシアンは少なからず怒りを感じた。相手が令嬢だったから良いものの、宮殿に忍び込む不届き者に遭遇して、危ない目に遭ったらと危惧した。なにより打ち明けてくれなかったのは、自身への信頼の欠如だ。あくまでユーグを想ってのことだったが、ユーグは別の受け取り方をした。
(リゼット嬢に関わることだからお怒りなのだろう。それほどまでに真剣なお気持ちなのだ。
間違っているのはわたしだ。リゼット嬢が失格になっても、殿下とわたしの関係は変わるべくもないのに、彼女を陥れる陰謀に目をつむるなんて。殿下がここまで愛しているリゼット嬢を守ることが、殿下の幸せを守ることなんだ)
彼は覚悟を決めて、懺悔するようにルシアンに告白した。
「怪しいメイドを見たことを話せなかったのは、もっと重大なことを見聞きしてしまったからなのです。メリザンド様がリゼット嬢がレーブジャルダン家の養女であることを知り、元は平民であったのなら皇太子妃候補の資格はなくなると、出自を探っています」
「なんだと。それではリゼット嬢の出自に疑惑があるというのか」
ルシアンはユーグから詳しい話を聞いた。
一週間後にリゼットは昼食会に出席すべく宮殿にやってきた。避暑を過ぎると急に秋めいてきて、朝晩は肌寒く感じるくらいにはなっていた。
この時点で、あれだけ大勢いた皇太子妃候補は、もう十人程度に減っていた。最初にこの王宮に来たときは、大勢の美しく洗練された令嬢の中で、自分が勝ち残れるわけがないと、どこか諦めすら感じていたが、まったく人生とはわからないものである。
少し早く着いたリゼットは控えの間に通された。そこでリアーヌが近付いてきた。
「ごきげんよう。ローズ様に感想文を差し替えられたと聞きましたわ。災難でしたわね」
エストカピタール以降、彼女はリゼットに媚びる方針を取っているとリゼットはわかっていた。だが仮にも芸術祭で協力した相手でもあり、あまりに冷たくするのも悪い気がして、なんとなく彼女のお喋りに付き合った。
「それにしてもリゼット様、今日も御髪を綺麗にセットしていらっしゃいますけれど、ちょっと髪につける油の匂いがきつく感じますわ」
「そうかしら? 自分では気が付かないものなのね」
「ちょうどよかった。最近手にいれた香水がありますの」
リアーヌはバッグから小さな香水瓶を取り出すと、蓋を開けて、ずいっとリゼットの顔に近付けて香りをかがせた。濃厚な甘い香りがリゼットの鼻腔に充満する。
「これで匂いを誤魔化すとよろしいわ」
リアーヌはリゼットの耳の後ろや首筋や、ありとあらゆるところに香水をべたべたとつけた。
「つけすぎじゃないかしら」
「これくらいじゃないと誤魔化せませんわ。では、わたくしはこれで」
リアーヌはリゼットを残して控えの間を出てしまった。リゼットもついて行こうとしたが、むせかえるような香りに頭がぼうっとして、椅子に座り込んだ。
一方、厨房では食事の用意が進んでいた。最初に出されるスープはワゴンに乗せられて、招待客に運ばれるのを待っている。
そのワゴンに近付くメイドがいた。見れば、それはメイドに化けたローズだった。
(リアーヌめ、一人だけ抜け駆けしてのうのうと妃候補でいられると思ったら大間違いよ。ついでにリゼットにもメリザンドにも他の候補にも、目にもの見せてやるんだから)
使用人たちの話を盗み聞いたところ、このワゴンのスープは全て令嬢たちのものらしい。ローズは懐から小瓶を取り出して、中のくしゃみを引き起こす薬をスープの上に振りかけた。
「ローズ! 何をしているの!」
最後の皿に薬を振りかけたところで、後ろから名を呼ばれ、ローズはびくりと振り返った。見るとキトリィが腰に手を当てて仁王立ちしていた。王宮内の迎賓館に逗留している王女は、昼食会が始まるまで暇つぶしにあちこち探検していた。その途中で、メイドに化けたローズを見つけて、後をつけていたのだ。
ローズは身を翻して逃げ出した。キトリィは追いかけようとして、はたと立ち止まり、ローズが粉を振りかけたスープの並んだワゴンを隣のワゴンと入れ替えた。そしてスカートをまくり上げて、もたもた逃げているローズを全速力で追いかけた。
二人が去ってしまってから、ユーグはそっと出てきた。
(ローズ嬢が何か料理に小細工をしたようだが、殿下の思し召しにはうってつけだ。王女様が交換してくれたから、リゼット嬢の口には入らないだろうし)
目撃した悪事を敢て胸に納めて、厨房の人間を捕まえて、胸に抱えた白い袋を渡した。
「皇太子殿下が特に皆様に飲んでいただきたいとご用意した茶だ。今日はこれをお出ししてくれ」
料理人は了承して袋を受け取った。
一方、キトリィはすぐにローズに追いついて、抱き着くように捕まえた。
「ずるいことはしちゃだめって言ったのに、こんなことをするなんて」
「わたくしはもう候補ではありませんのよ。怖いものなんてありませんわ。わたくしには皇太子妃になることしかなかったのに、そのために努力をしてきたのに、裏切られて失格になるのなら、神様なんていやしませんから、何をしても後ろめたいなんて思いませんわよ」
両親も兄弟も、適当な年齢で適当な家格の嫁ぎ先に縁づけばいいと、まったく面白みのない将来を押し付けてくる。そんな平凡でありふれた未来はまっぴらごめんだった。自らの手で、納得できる輝かしい人生をつかみ取りたかったのだ。だから皇太子妃の座を得るべく他の令嬢と競い合うことは、彼女にとって自らの人生を切り拓く有意義な行いだったのだ。
「王女様もわたくしなんかより、リアーヌをしっかりと捕まえたほうがよろしくてよ。あの腹黒女、リゼットの手紙の差し替えはあの女が企んだのに、わたしだけに罪をなすりつけて! 今日だって何をするかわかったものじゃごさいまぜんわよ」
それを聞いて、もしやリゼットが危ないのではないかと、キトリィはローズを捨て置き急いで控えの間へ向かった。既にメリザンドを始め、数人の令嬢が集まっていた。キトリィはキョロキョロと見回すと、隅の方の椅子にリゼットが座っていた。近付いてみると、居眠りしているようだった。
「あら、王女様。わたくし眠っていたのね。なんだか今日は、ものすごく眠くて……」
「もしかして、リアーヌに何かされたんじゃないの?」
「さっき香水をつけてもらったんだけれど……」
どうもその香水は眠り薬だったらしい。既に香りは薄くなっていてキトリィには効果がなかったが、たくさん嗅いだリゼットの瞼は、今にも落ちそうだった。
キトリィはリゼットの頬をつねって、仮面舞踏会でユーグにやったリヴェールのツボ押しをして、何とか叩き起こして昼食の席に座らせた。
ルシアンはユーグの顔を見ると非常に心配して、食事を運んでこさせて、自ら食べさせようとするほど甲斐甲斐しく世話をした。ただ、優しくされればされるほど、ユーグの胸に愛しさが募り、益々つらくなった。
そうとは知らずに、ルシアンは先ほどの出来事を話した。ローズが感想文を差し替えたのなら、きっと執務室に忍び込んだに違いない。ユーグは昨夜の不審なメイドに思い至り、そのことをルシアンに話した。
「そんな重大なことを、どうして知らせなかった」
ルシアンは少なからず怒りを感じた。相手が令嬢だったから良いものの、宮殿に忍び込む不届き者に遭遇して、危ない目に遭ったらと危惧した。なにより打ち明けてくれなかったのは、自身への信頼の欠如だ。あくまでユーグを想ってのことだったが、ユーグは別の受け取り方をした。
(リゼット嬢に関わることだからお怒りなのだろう。それほどまでに真剣なお気持ちなのだ。
間違っているのはわたしだ。リゼット嬢が失格になっても、殿下とわたしの関係は変わるべくもないのに、彼女を陥れる陰謀に目をつむるなんて。殿下がここまで愛しているリゼット嬢を守ることが、殿下の幸せを守ることなんだ)
彼は覚悟を決めて、懺悔するようにルシアンに告白した。
「怪しいメイドを見たことを話せなかったのは、もっと重大なことを見聞きしてしまったからなのです。メリザンド様がリゼット嬢がレーブジャルダン家の養女であることを知り、元は平民であったのなら皇太子妃候補の資格はなくなると、出自を探っています」
「なんだと。それではリゼット嬢の出自に疑惑があるというのか」
ルシアンはユーグから詳しい話を聞いた。
一週間後にリゼットは昼食会に出席すべく宮殿にやってきた。避暑を過ぎると急に秋めいてきて、朝晩は肌寒く感じるくらいにはなっていた。
この時点で、あれだけ大勢いた皇太子妃候補は、もう十人程度に減っていた。最初にこの王宮に来たときは、大勢の美しく洗練された令嬢の中で、自分が勝ち残れるわけがないと、どこか諦めすら感じていたが、まったく人生とはわからないものである。
少し早く着いたリゼットは控えの間に通された。そこでリアーヌが近付いてきた。
「ごきげんよう。ローズ様に感想文を差し替えられたと聞きましたわ。災難でしたわね」
エストカピタール以降、彼女はリゼットに媚びる方針を取っているとリゼットはわかっていた。だが仮にも芸術祭で協力した相手でもあり、あまりに冷たくするのも悪い気がして、なんとなく彼女のお喋りに付き合った。
「それにしてもリゼット様、今日も御髪を綺麗にセットしていらっしゃいますけれど、ちょっと髪につける油の匂いがきつく感じますわ」
「そうかしら? 自分では気が付かないものなのね」
「ちょうどよかった。最近手にいれた香水がありますの」
リアーヌはバッグから小さな香水瓶を取り出すと、蓋を開けて、ずいっとリゼットの顔に近付けて香りをかがせた。濃厚な甘い香りがリゼットの鼻腔に充満する。
「これで匂いを誤魔化すとよろしいわ」
リアーヌはリゼットの耳の後ろや首筋や、ありとあらゆるところに香水をべたべたとつけた。
「つけすぎじゃないかしら」
「これくらいじゃないと誤魔化せませんわ。では、わたくしはこれで」
リアーヌはリゼットを残して控えの間を出てしまった。リゼットもついて行こうとしたが、むせかえるような香りに頭がぼうっとして、椅子に座り込んだ。
一方、厨房では食事の用意が進んでいた。最初に出されるスープはワゴンに乗せられて、招待客に運ばれるのを待っている。
そのワゴンに近付くメイドがいた。見れば、それはメイドに化けたローズだった。
(リアーヌめ、一人だけ抜け駆けしてのうのうと妃候補でいられると思ったら大間違いよ。ついでにリゼットにもメリザンドにも他の候補にも、目にもの見せてやるんだから)
使用人たちの話を盗み聞いたところ、このワゴンのスープは全て令嬢たちのものらしい。ローズは懐から小瓶を取り出して、中のくしゃみを引き起こす薬をスープの上に振りかけた。
「ローズ! 何をしているの!」
最後の皿に薬を振りかけたところで、後ろから名を呼ばれ、ローズはびくりと振り返った。見るとキトリィが腰に手を当てて仁王立ちしていた。王宮内の迎賓館に逗留している王女は、昼食会が始まるまで暇つぶしにあちこち探検していた。その途中で、メイドに化けたローズを見つけて、後をつけていたのだ。
ローズは身を翻して逃げ出した。キトリィは追いかけようとして、はたと立ち止まり、ローズが粉を振りかけたスープの並んだワゴンを隣のワゴンと入れ替えた。そしてスカートをまくり上げて、もたもた逃げているローズを全速力で追いかけた。
二人が去ってしまってから、ユーグはそっと出てきた。
(ローズ嬢が何か料理に小細工をしたようだが、殿下の思し召しにはうってつけだ。王女様が交換してくれたから、リゼット嬢の口には入らないだろうし)
目撃した悪事を敢て胸に納めて、厨房の人間を捕まえて、胸に抱えた白い袋を渡した。
「皇太子殿下が特に皆様に飲んでいただきたいとご用意した茶だ。今日はこれをお出ししてくれ」
料理人は了承して袋を受け取った。
一方、キトリィはすぐにローズに追いついて、抱き着くように捕まえた。
「ずるいことはしちゃだめって言ったのに、こんなことをするなんて」
「わたくしはもう候補ではありませんのよ。怖いものなんてありませんわ。わたくしには皇太子妃になることしかなかったのに、そのために努力をしてきたのに、裏切られて失格になるのなら、神様なんていやしませんから、何をしても後ろめたいなんて思いませんわよ」
両親も兄弟も、適当な年齢で適当な家格の嫁ぎ先に縁づけばいいと、まったく面白みのない将来を押し付けてくる。そんな平凡でありふれた未来はまっぴらごめんだった。自らの手で、納得できる輝かしい人生をつかみ取りたかったのだ。だから皇太子妃の座を得るべく他の令嬢と競い合うことは、彼女にとって自らの人生を切り拓く有意義な行いだったのだ。
「王女様もわたくしなんかより、リアーヌをしっかりと捕まえたほうがよろしくてよ。あの腹黒女、リゼットの手紙の差し替えはあの女が企んだのに、わたしだけに罪をなすりつけて! 今日だって何をするかわかったものじゃごさいまぜんわよ」
それを聞いて、もしやリゼットが危ないのではないかと、キトリィはローズを捨て置き急いで控えの間へ向かった。既にメリザンドを始め、数人の令嬢が集まっていた。キトリィはキョロキョロと見回すと、隅の方の椅子にリゼットが座っていた。近付いてみると、居眠りしているようだった。
「あら、王女様。わたくし眠っていたのね。なんだか今日は、ものすごく眠くて……」
「もしかして、リアーヌに何かされたんじゃないの?」
「さっき香水をつけてもらったんだけれど……」
どうもその香水は眠り薬だったらしい。既に香りは薄くなっていてキトリィには効果がなかったが、たくさん嗅いだリゼットの瞼は、今にも落ちそうだった。
キトリィはリゼットの頬をつねって、仮面舞踏会でユーグにやったリヴェールのツボ押しをして、何とか叩き起こして昼食の席に座らせた。