第九章 エストカピタールにて 第三話
文字数 2,976文字
ルシアンはリゼットを席に連れて行った。令嬢たちは羨望と嫉妬のまなざしでそれを見つめた。
「お待ちなさい。リゼット嬢は遅刻しました。招待状にも書いたように、失格となります」
「いいえ母上、正午の鐘と同時にここへ現れました。遅れてはいません」
ルシアンはリゼットを庇うように立った。
「ですが、他の人たちは十分前にはここにきていましたよ。それに駆け込むようにやってくるなんて、淑女のふるまいではありません」
「誰が駆け込んできましたか。わたしと一緒に、歩いてやってきたではありませんか。それに招待状に書かれた時間は正午きっかり、正午の十分前とは書いてありませんでした。一秒の遅れも許さないというなら、あと一秒で間に合ったことも認めなければいけません。それこそが誰もが納得する厳格さでは」
正論だが皇后は何としてもリゼットを失格にしたいので、ですが、とかなんとか、ひたすらごねた。
「もしリゼット嬢が遅刻したというなら、わたしも遅刻したことになりますね。ではわたしも、次回から妃選びには加わりません」
「なんですって? あなたがいなくてどうするの。だいたい、遅刻厳禁はご令嬢たちだけですよ」
「招待状には、“皇太子妃選びの参加者”と書かれていました。わたしも参加者ですよ、選ぶ立場ですがね。今日いらっしゃっているご婦人方もまた、審査員としての参加者でしょう。皆さん間に合っていたようですが」
審査のために茶会に参加している貴婦人たちは、皇太子の屁理屈に何と答えて良いのやら、互いに顔を見合わせ、最後に指示を仰ぐように皇后を見た。
屁理屈には違いない。だがリゼットが遅刻したかどうか、皇后が屁理屈をこねたことへの意趣返しでもある。
(この子は、それほどまでにリゼット嬢を妃にと望んでいるのかしら。ああ、せっかくの計画が台無しだわ)
密かに奥歯を噛みしめたが、あくまで鷹揚に取り繕って、皇后はリゼットを失格にしないと決断した。ルシアンは満足そうに礼を言うと、用意された席へ向かおうとした。そこでメリザンドが話題を変えるように言葉を発した。
「リゼット様が間に合ってようございましたわ。でも時間にはお気を付けあそばせ。なんといっても次回の妃選びは避暑地のポルトシュパルで行われますから。
トルポシュバルはエストカピタールからずいぶん離れておりますから、今日のように駆けつけるのは難しいでしょう。監督なさっている演目は、避暑のシーズンに合わせて上演すると聞きました。お立場からして初日に立ち会わなくてはいけませんわね。でもそれだと、どう計算しても妃選びの音楽会には間に合いませんわ」
リゼットは頭の中にシモンに見せてもらったトレゾールの地図を思い浮かべた。はっきりと何日と計算はできなかったが、首都エスカリエからエストカピタールまでよりも、トルポシュパルからエストカピタールまでの方が距離があった。
すると、ルシアンが何かを思い出したように立ち止った。
「避暑か。今年はわたしにちょっとした予定がある」
「どんなご予定ですの?」
ルシアンは振り返ってリゼットの正面を向いた。
「リゼット嬢、今週の日曜、旅に出よう」
令嬢も貴婦人もみなピタリと動きを止めた。いま皇太子は何と言ったか。令嬢と二人で旅に出るとは。
リゼットの頭の中には、どこへ? なにをしに? と疑問が浮かんだ。だがそれらをぶつけるのはあまりにも愚かで野暮だとわかっていた。
「はい。殿下とご一緒なら、どこへでも」
ただ微笑んで答える。命を助けてくれたルシアンとならば、どんな場所で何をすることになっても、怖れることなど無いのだ。リゼットの心には今だたかつてない自信が生まれていた。
「妃選びは終わっていないのに、一人の令嬢と二人で旅に出るなんて。そんなこと許されませんよ。いいえ私が許しません」
時が泊まったようなテラスの中で、ようやく皇后が声を上げた。それを皮きりに、貴婦人や令嬢たちも互いに皇太子の発言を非難したり、真意を探らんとした。
「なにも二人きりというわけではありません。茶会が終わったら、リゼット嬢は兄君とパメラ嬢とともにエストカピタールに戻ります。わたしもそれに同行しようと思うのです。彼女はこちらへ向かう道中、盗賊に襲われましたから、わたしと近衛隊が同行し、道中の安全を図りたいと思います。行ったついでなので、わたしもエストカピタールで避暑をと考えています。あそこは温泉もありますし、一度行ってみたかったのです」
「皇室伝統のポルトシュバルへの避暑に参加しないですって。避暑地での音楽会は妃選びも兼ねているのよ。あなたがいなくてどうするのです」
「音楽会で現地の音楽家の演奏を聞き感想を提出するのが今回の課題でしょう。わたしがいなくても感想を書くことくらいはできるでしょう。
どうしてもわたしがいなければならないというなら、妃選びは二か所で行うことにしてはいかがでしょう。ポルトシュバルでは音楽会の、エストカピタールではリゼット嬢が手がける出し物を見て、それぞれの感想を提出することにしては。音楽会の演目は古典が多く伝統的ですが、リゼット嬢の演目は革新的ですから、令嬢たちはそれぞれ自分の感性と文才を発揮できると思う方を鑑賞すればいい」
息子の口から次から次へと理解しがたい避暑の過ごし方が飛び出してきて、皇后は失神しかけた。貴婦人たちに扇であおがれて何とか正気に戻ったが、この場の主導権を握ったルシアンに対峙する気力はなくなってしまった。
「せっかく建国500年の節目の夏ですから、常とは違うことをしなくては。今年の避暑は
二か所で。妃選びも同様に」
すっかりそうと決まってしまった。
ルシアンは母に代わって茶会を進めた。
「それにしてもリゼットさん、様が、危ない目に遭ったって、怪我はないの?」
キトリィに心配され、リゼットは微笑んで答えた。
「道中盗賊に遭いまして、でも殿下が助けてくださいましたわ」
「それにしても、殿下が迎えにいくなんて、しかも帰りもつきっきりとは。殿下を護衛のように扱うなんて、リゼット様は大胆ですわね」
「護衛なんて滅相もございませんわ。道中を殿下と過ごせると思うと、今から楽しみです。もちろん、二人きりではありませんけれど、ご一緒するというのは変わりませんもの」
「羨ましいですわ。わたくしも殿下に助けていただきたいわ。せめて次の集まりで遅刻すれすれで現れたら、先ほどの用にエスコートしてくださるかしら」
「あら、リアーヌ様はもうエストカピタールへおこしになるとお決めになったのですね。嬉しいですわ。きっとご満足いただける演目にいたしますから、ご期待ください」
ローズの嫌味もリアーヌのお慕い芸も鮮やかにいなして、リゼットは優雅に紅茶に口をつけた。彼女はいつになく堂々としていた。ルシアンがついている、彼に案じられて、守られてここへ来た。そのことが彼女の頼りなかった心を強く支えているのだ。
令嬢たちは、皇太子妃候補最右翼に飛び出したリゼットの様子にやきもきしつつ、避暑の行き先をどうすべきかと、そればかり考えていた。
社交界にも避暑が二か所で行われることはすぐに広まった。貴族たちも迷った。慣例通りに皇帝夫妻についてポルトシュパルへ行くべきか、それとも皇太子のためにエストカピタールに行くべきか。
「お待ちなさい。リゼット嬢は遅刻しました。招待状にも書いたように、失格となります」
「いいえ母上、正午の鐘と同時にここへ現れました。遅れてはいません」
ルシアンはリゼットを庇うように立った。
「ですが、他の人たちは十分前にはここにきていましたよ。それに駆け込むようにやってくるなんて、淑女のふるまいではありません」
「誰が駆け込んできましたか。わたしと一緒に、歩いてやってきたではありませんか。それに招待状に書かれた時間は正午きっかり、正午の十分前とは書いてありませんでした。一秒の遅れも許さないというなら、あと一秒で間に合ったことも認めなければいけません。それこそが誰もが納得する厳格さでは」
正論だが皇后は何としてもリゼットを失格にしたいので、ですが、とかなんとか、ひたすらごねた。
「もしリゼット嬢が遅刻したというなら、わたしも遅刻したことになりますね。ではわたしも、次回から妃選びには加わりません」
「なんですって? あなたがいなくてどうするの。だいたい、遅刻厳禁はご令嬢たちだけですよ」
「招待状には、“皇太子妃選びの参加者”と書かれていました。わたしも参加者ですよ、選ぶ立場ですがね。今日いらっしゃっているご婦人方もまた、審査員としての参加者でしょう。皆さん間に合っていたようですが」
審査のために茶会に参加している貴婦人たちは、皇太子の屁理屈に何と答えて良いのやら、互いに顔を見合わせ、最後に指示を仰ぐように皇后を見た。
屁理屈には違いない。だがリゼットが遅刻したかどうか、皇后が屁理屈をこねたことへの意趣返しでもある。
(この子は、それほどまでにリゼット嬢を妃にと望んでいるのかしら。ああ、せっかくの計画が台無しだわ)
密かに奥歯を噛みしめたが、あくまで鷹揚に取り繕って、皇后はリゼットを失格にしないと決断した。ルシアンは満足そうに礼を言うと、用意された席へ向かおうとした。そこでメリザンドが話題を変えるように言葉を発した。
「リゼット様が間に合ってようございましたわ。でも時間にはお気を付けあそばせ。なんといっても次回の妃選びは避暑地のポルトシュパルで行われますから。
トルポシュバルはエストカピタールからずいぶん離れておりますから、今日のように駆けつけるのは難しいでしょう。監督なさっている演目は、避暑のシーズンに合わせて上演すると聞きました。お立場からして初日に立ち会わなくてはいけませんわね。でもそれだと、どう計算しても妃選びの音楽会には間に合いませんわ」
リゼットは頭の中にシモンに見せてもらったトレゾールの地図を思い浮かべた。はっきりと何日と計算はできなかったが、首都エスカリエからエストカピタールまでよりも、トルポシュパルからエストカピタールまでの方が距離があった。
すると、ルシアンが何かを思い出したように立ち止った。
「避暑か。今年はわたしにちょっとした予定がある」
「どんなご予定ですの?」
ルシアンは振り返ってリゼットの正面を向いた。
「リゼット嬢、今週の日曜、旅に出よう」
令嬢も貴婦人もみなピタリと動きを止めた。いま皇太子は何と言ったか。令嬢と二人で旅に出るとは。
リゼットの頭の中には、どこへ? なにをしに? と疑問が浮かんだ。だがそれらをぶつけるのはあまりにも愚かで野暮だとわかっていた。
「はい。殿下とご一緒なら、どこへでも」
ただ微笑んで答える。命を助けてくれたルシアンとならば、どんな場所で何をすることになっても、怖れることなど無いのだ。リゼットの心には今だたかつてない自信が生まれていた。
「妃選びは終わっていないのに、一人の令嬢と二人で旅に出るなんて。そんなこと許されませんよ。いいえ私が許しません」
時が泊まったようなテラスの中で、ようやく皇后が声を上げた。それを皮きりに、貴婦人や令嬢たちも互いに皇太子の発言を非難したり、真意を探らんとした。
「なにも二人きりというわけではありません。茶会が終わったら、リゼット嬢は兄君とパメラ嬢とともにエストカピタールに戻ります。わたしもそれに同行しようと思うのです。彼女はこちらへ向かう道中、盗賊に襲われましたから、わたしと近衛隊が同行し、道中の安全を図りたいと思います。行ったついでなので、わたしもエストカピタールで避暑をと考えています。あそこは温泉もありますし、一度行ってみたかったのです」
「皇室伝統のポルトシュバルへの避暑に参加しないですって。避暑地での音楽会は妃選びも兼ねているのよ。あなたがいなくてどうするのです」
「音楽会で現地の音楽家の演奏を聞き感想を提出するのが今回の課題でしょう。わたしがいなくても感想を書くことくらいはできるでしょう。
どうしてもわたしがいなければならないというなら、妃選びは二か所で行うことにしてはいかがでしょう。ポルトシュバルでは音楽会の、エストカピタールではリゼット嬢が手がける出し物を見て、それぞれの感想を提出することにしては。音楽会の演目は古典が多く伝統的ですが、リゼット嬢の演目は革新的ですから、令嬢たちはそれぞれ自分の感性と文才を発揮できると思う方を鑑賞すればいい」
息子の口から次から次へと理解しがたい避暑の過ごし方が飛び出してきて、皇后は失神しかけた。貴婦人たちに扇であおがれて何とか正気に戻ったが、この場の主導権を握ったルシアンに対峙する気力はなくなってしまった。
「せっかく建国500年の節目の夏ですから、常とは違うことをしなくては。今年の避暑は
二か所で。妃選びも同様に」
すっかりそうと決まってしまった。
ルシアンは母に代わって茶会を進めた。
「それにしてもリゼットさん、様が、危ない目に遭ったって、怪我はないの?」
キトリィに心配され、リゼットは微笑んで答えた。
「道中盗賊に遭いまして、でも殿下が助けてくださいましたわ」
「それにしても、殿下が迎えにいくなんて、しかも帰りもつきっきりとは。殿下を護衛のように扱うなんて、リゼット様は大胆ですわね」
「護衛なんて滅相もございませんわ。道中を殿下と過ごせると思うと、今から楽しみです。もちろん、二人きりではありませんけれど、ご一緒するというのは変わりませんもの」
「羨ましいですわ。わたくしも殿下に助けていただきたいわ。せめて次の集まりで遅刻すれすれで現れたら、先ほどの用にエスコートしてくださるかしら」
「あら、リアーヌ様はもうエストカピタールへおこしになるとお決めになったのですね。嬉しいですわ。きっとご満足いただける演目にいたしますから、ご期待ください」
ローズの嫌味もリアーヌのお慕い芸も鮮やかにいなして、リゼットは優雅に紅茶に口をつけた。彼女はいつになく堂々としていた。ルシアンがついている、彼に案じられて、守られてここへ来た。そのことが彼女の頼りなかった心を強く支えているのだ。
令嬢たちは、皇太子妃候補最右翼に飛び出したリゼットの様子にやきもきしつつ、避暑の行き先をどうすべきかと、そればかり考えていた。
社交界にも避暑が二か所で行われることはすぐに広まった。貴族たちも迷った。慣例通りに皇帝夫妻についてポルトシュパルへ行くべきか、それとも皇太子のためにエストカピタールに行くべきか。