第一章 労多くして功少なし 第三話
文字数 2,932文字
オーディションがまったくないわけではない。例えばこの場面でコーラスをする人を選ぶとか、少人数でダンスをする人を決めるとか。ただ、役を巡ってということは少ない。オーディションで役を決めることがあっても、あなたとあなたとあなたはオーディションを受けてください、と劇団から指名される。この場合指名されるのは路線の人間か、劇団が路線にしてもいいと思っている若手だ。誰でも挑戦できるわけではない。
そもそも、トップスターが絶対に主演、ヒロインをトップ娘役が演じると決まっている劇団で、挙手制のオーディションをしても意味をなさないだろう。
役をいただく、と宝川歌劇の生徒はよく口にするが、つまりはそういうこと。役は劇団からいただくもので、自分でつかみ取るものではない。
新人公演の香盤表が張り出されたのは、稽古が始まって間もなくだった。夢園さゆりは少々緊張してそれを見た。一つは、今回は彼女たち95期生が新人公演に参加する生徒の中で最上級生であり、リーダとして引っ張っていかなければいけないからであり、もう一つは最後くらい少しはいい役が回ってくるのではなという淡い期待があったからだ。
結果は悪くはないが、良くはない。淡い期待は見事に裏切られた。どんな顔で香盤表の前から立ち去ったらよいかわからず、他の配役もチェックしているふりをして、暫く佇んでいた。
「そっか、えっちゃんは乳母だったんだね」
同じく香盤を見にきた紫貴 ゆうやが声をかけてきた。いつもと同じようで、どこか暗い声色だ。見ると彼女も同じように立ち尽くしていた。
紫貴ゆうやは間違いなく路線だった。研4の時に新人公演主演を経験し、去年もう一度主演が回ってきた。ただ、今回は同期の秋月怜央 が主演となり、紫貴ゆうやは脇にまわった。
秋月怜央は初めての新公主演だが、最近彼女は本公演での役付きがいい。人数が絞られる別箱では名前があってセリフも歌もダンスもある役をやっていた。先に抜擢を受けていた紫貴ゆうやとしては、抜かされた格好になり、彼女もどういう顔をしていいかわからなかったようだ。
こういう路線スター同士の争いは男役にも当然ある。旬の早い娘役よりも決着がつくまでが長いが、その間に、こうした主演経験や演じる役の大きさで差が開き、徐々に路線から外れていく。ファンは惨酷にも、そういう生徒のことを路線落ちと呼ぶ。
「れいは最後に主役できて良かったよね。主演だから大変だろうし、他の事はわたしたちができる限りやろうね」
同期を支えながら最上級生として下級生を引っ張っていこう、と笑顔で夢園さゆりの肩を軽くたたき、そのまま稽古場へと戻っていった。自分は負けていない。今回は譲ったが、次は譲らない。そんな心の声が聞こえてくるようだった。
(ゆうちゃん逞しいな)
同期の逞しさと上り詰めようという野心の強さが、未だに香盤表の前から動けないでいる自分の情けなさを浮き彫りにしていた。
しかし、香盤にまつわる色々な感情など、すぐに忘れることになる。目下本公演の稽古は進んでいるし、ここから新人公演の稽古も始まり、めまぐるしい忙しさに翻弄されることになるからだ。
「……はるさんはハーフアップっぽくなってて、ゆるっとしたシニョンみたいな感じで、おろしてる髪は細かくウェーブしてる。ちっちさんは金髪で、半かつらから頭に沿う感じでアップにしている。それでみたさんは明るい茶色で細かいカールした髪がお団子になってる感じだって」
同期が芝居の舞踏会の場面に出る上級生たちのかつらの形を伝達してきた。
娘役の舞台でのかつらは、かなり凝ったものや日本髪ではない限り、個人の裁量で美容院で誂える。その際、同じ場面に出る上級生と同じかつらになってはいけないので、稽古が進む中で、誰がどのようなかつらを作ると、上級生から下級生へ伝達がくる。
「わたしは暗めの茶髪でストレートで編み込みしたハーフアップにして、前髪斜めに出す予定だけど、えっちゃんはどうする?」
十数人いる上級生のかつらのデザインを全て伝えて、少し息切れしながら同期は自分の希望の髪形を話した。
今回の芝居は18世紀ごろのヨーロッパが舞台。場面は貴族の舞踏会だ。その背景に沿っていて、かつ自分に似合って、そのうえ上級生とかぶらないものを考えなければいけない。
「そうだね……。黄味の強い茶色でボリュームのあるアップになってて、毛束が三筋くらい垂れてて、ゆるくウェーブしてる感じかな」
実際にデザインを決めるのは美容師と話し合いながらであるが、ここで大体を決めておかなければ、これから決める下級生たちが困るだろうと思うので、美容院でもなるべく決めた通りのものを誂えることにしている。もっと下級生の頃に、かつらを作った後、舞台稽古で上級生が伝達と違うかつらをつけていて、それが見事に自分と同じデザインで、怒られた上に、急いで新しく作る羽目になったことがあるから、同じ苦労はさせたくない。
夢園さゆりがかつらを決めなければいけないのは、この場面だけではない。市場の女性を演じる時もだし、同じ貴族でも別の場面では違う衣装を着ているので、同じかつらというわけにはいかない。さらに、第二部のレビューショーの方でも、かつらが必要になる場面がいくつかある。新人公演も合わせると、だいたい7個は必要であった。
娘役が公演のために準備するのはそれだけではない。イヤリングやネックレスや指輪、髪飾りなどの装飾品も、劇団から支給されることもあるが、大体の場合は自分で用意する。こちらも芝居なら時代背景や役の身分やイメージに合わせ、ショーならその場面の衣装のイメージやテーマに合わせる必要がある。
舞台上の装身具をセンス良く誂えるのも娘役のスキルの一つとされている。センスがなかったり、そこに労力と金をかけないのは、やる気がないとみなされる。ファンも娘役たちのそうした美しい装いを楽しみにしている一方で、やれかつらが似合わないだの、アクセサリーが大きすぎて下品だの、あれこれ批評する。
娘役のスキルというのは、ただ装いをこらすことだけではない。
今回の芝居では、貴族の娘役は輪っかのドレスを着る。スカートの中に堅い芯の輪が入ったパニエを入れて、スカートをドーム状に膨らませるものだ。正にマリーアントワネットのドレスなのだが、そういうドレスは普通に歩くとスカートが大きく揺れてしまい見苦しい。それを揺らさないように美しく歩かなければいけない。
「重心は下めで、イメージとしては膝から下だけを動かして歩く感じ」
現代日本人が日常的に輪っかのドレス着用することはまったくない。これも宝川歌劇団の娘役としての経験によって得られる技術だった。晴日 つばめは今回初めて輪っかのドレスを着るので、稽古が始まる前に、夢園さゆりが歩き方を教えていた。
夢園さゆりが晴日つばめにこうも構うのは、彼女が自分のお手伝いだからである。下級生が上級生に申し出て、稽古場や舞台上で手伝いをすることを、お手伝いという。強制ではないが、多くの下級生が誰かしら上級生の手伝いになって、こまごまとした雑用を引き受ける代わりに、側について舞台に必要なことを学んでいる。
そもそも、トップスターが絶対に主演、ヒロインをトップ娘役が演じると決まっている劇団で、挙手制のオーディションをしても意味をなさないだろう。
役をいただく、と宝川歌劇の生徒はよく口にするが、つまりはそういうこと。役は劇団からいただくもので、自分でつかみ取るものではない。
新人公演の香盤表が張り出されたのは、稽古が始まって間もなくだった。夢園さゆりは少々緊張してそれを見た。一つは、今回は彼女たち95期生が新人公演に参加する生徒の中で最上級生であり、リーダとして引っ張っていかなければいけないからであり、もう一つは最後くらい少しはいい役が回ってくるのではなという淡い期待があったからだ。
結果は悪くはないが、良くはない。淡い期待は見事に裏切られた。どんな顔で香盤表の前から立ち去ったらよいかわからず、他の配役もチェックしているふりをして、暫く佇んでいた。
「そっか、えっちゃんは乳母だったんだね」
同じく香盤を見にきた
紫貴ゆうやは間違いなく路線だった。研4の時に新人公演主演を経験し、去年もう一度主演が回ってきた。ただ、今回は同期の
秋月怜央は初めての新公主演だが、最近彼女は本公演での役付きがいい。人数が絞られる別箱では名前があってセリフも歌もダンスもある役をやっていた。先に抜擢を受けていた紫貴ゆうやとしては、抜かされた格好になり、彼女もどういう顔をしていいかわからなかったようだ。
こういう路線スター同士の争いは男役にも当然ある。旬の早い娘役よりも決着がつくまでが長いが、その間に、こうした主演経験や演じる役の大きさで差が開き、徐々に路線から外れていく。ファンは惨酷にも、そういう生徒のことを路線落ちと呼ぶ。
「れいは最後に主役できて良かったよね。主演だから大変だろうし、他の事はわたしたちができる限りやろうね」
同期を支えながら最上級生として下級生を引っ張っていこう、と笑顔で夢園さゆりの肩を軽くたたき、そのまま稽古場へと戻っていった。自分は負けていない。今回は譲ったが、次は譲らない。そんな心の声が聞こえてくるようだった。
(ゆうちゃん逞しいな)
同期の逞しさと上り詰めようという野心の強さが、未だに香盤表の前から動けないでいる自分の情けなさを浮き彫りにしていた。
しかし、香盤にまつわる色々な感情など、すぐに忘れることになる。目下本公演の稽古は進んでいるし、ここから新人公演の稽古も始まり、めまぐるしい忙しさに翻弄されることになるからだ。
「……はるさんはハーフアップっぽくなってて、ゆるっとしたシニョンみたいな感じで、おろしてる髪は細かくウェーブしてる。ちっちさんは金髪で、半かつらから頭に沿う感じでアップにしている。それでみたさんは明るい茶色で細かいカールした髪がお団子になってる感じだって」
同期が芝居の舞踏会の場面に出る上級生たちのかつらの形を伝達してきた。
娘役の舞台でのかつらは、かなり凝ったものや日本髪ではない限り、個人の裁量で美容院で誂える。その際、同じ場面に出る上級生と同じかつらになってはいけないので、稽古が進む中で、誰がどのようなかつらを作ると、上級生から下級生へ伝達がくる。
「わたしは暗めの茶髪でストレートで編み込みしたハーフアップにして、前髪斜めに出す予定だけど、えっちゃんはどうする?」
十数人いる上級生のかつらのデザインを全て伝えて、少し息切れしながら同期は自分の希望の髪形を話した。
今回の芝居は18世紀ごろのヨーロッパが舞台。場面は貴族の舞踏会だ。その背景に沿っていて、かつ自分に似合って、そのうえ上級生とかぶらないものを考えなければいけない。
「そうだね……。黄味の強い茶色でボリュームのあるアップになってて、毛束が三筋くらい垂れてて、ゆるくウェーブしてる感じかな」
実際にデザインを決めるのは美容師と話し合いながらであるが、ここで大体を決めておかなければ、これから決める下級生たちが困るだろうと思うので、美容院でもなるべく決めた通りのものを誂えることにしている。もっと下級生の頃に、かつらを作った後、舞台稽古で上級生が伝達と違うかつらをつけていて、それが見事に自分と同じデザインで、怒られた上に、急いで新しく作る羽目になったことがあるから、同じ苦労はさせたくない。
夢園さゆりがかつらを決めなければいけないのは、この場面だけではない。市場の女性を演じる時もだし、同じ貴族でも別の場面では違う衣装を着ているので、同じかつらというわけにはいかない。さらに、第二部のレビューショーの方でも、かつらが必要になる場面がいくつかある。新人公演も合わせると、だいたい7個は必要であった。
娘役が公演のために準備するのはそれだけではない。イヤリングやネックレスや指輪、髪飾りなどの装飾品も、劇団から支給されることもあるが、大体の場合は自分で用意する。こちらも芝居なら時代背景や役の身分やイメージに合わせ、ショーならその場面の衣装のイメージやテーマに合わせる必要がある。
舞台上の装身具をセンス良く誂えるのも娘役のスキルの一つとされている。センスがなかったり、そこに労力と金をかけないのは、やる気がないとみなされる。ファンも娘役たちのそうした美しい装いを楽しみにしている一方で、やれかつらが似合わないだの、アクセサリーが大きすぎて下品だの、あれこれ批評する。
娘役のスキルというのは、ただ装いをこらすことだけではない。
今回の芝居では、貴族の娘役は輪っかのドレスを着る。スカートの中に堅い芯の輪が入ったパニエを入れて、スカートをドーム状に膨らませるものだ。正にマリーアントワネットのドレスなのだが、そういうドレスは普通に歩くとスカートが大きく揺れてしまい見苦しい。それを揺らさないように美しく歩かなければいけない。
「重心は下めで、イメージとしては膝から下だけを動かして歩く感じ」
現代日本人が日常的に輪っかのドレス着用することはまったくない。これも宝川歌劇団の娘役としての経験によって得られる技術だった。
夢園さゆりが晴日つばめにこうも構うのは、彼女が自分のお手伝いだからである。下級生が上級生に申し出て、稽古場や舞台上で手伝いをすることを、お手伝いという。強制ではないが、多くの下級生が誰かしら上級生の手伝いになって、こまごまとした雑用を引き受ける代わりに、側について舞台に必要なことを学んでいる。