第四章 思わぬライバル 第九話
文字数 3,008文字
もうすぐ散策の時間だというのに、ルシアンはまだ自室に籠っていた。部屋の中にはユーグだけがいる。
「頼む、ほんの少しの時間で良いんだ」
皇太子が従者に頭を下げるなど、通常はあり得ないこと。それまでして懇願するのは、アンリエットとの会話の時間だ。散策が始まれば令嬢たちはルシアンに群がって、自由に動けないだろう。だから上手く彼女たちを上手く
「いけません。アンリエット様はもうリヴェールの侯爵夫人ですよ。密会などしたら、お互いに悪い影響があります。それにあの方に頼んだところで、リヴェール王家が婚姻の申し入れを断るわけはないでしょう」
「王女はまだ14歳だぞ! わたしより七つも年下だ」
「王家の婚姻には、十も年が離れていた例もあります」
「キトリィ王女と結婚しろというのか? わたしに幼女趣味はないぞ」
「殿下がお望みでないのはわかりますが、それは他の令嬢たちも同じです。殿下が心から添い遂げたいと思う人がいないならば、高貴な王家の血筋で、リヴェールとの良好な友好関係に資する王女様が、最善だと思うだけです。
それに、王女様のことは口実で、本当はアンリエット様とお話したいだけなのではないですか?」
図星を指され、ルシアンは少し怯んだようだった。
「アンリエットに恋していたのは昔の話だ。ただ子供の憧れだというのに、お前まで焼き餅か?」
「もう終わったことだと言えるのですか? 殿下のご様子からはそう思えません」
ルシアンはふと口をつぐんで、悲しげな瞳を揺らした。
「終わっていないのかもしれない。だが、だとしたら終わらせるためにも、彼女と話がしたいんだ。頼むユーグ、わたしの味方はお前しかいない」
これが従者を篭絡するための演技でないことは長年仕えているからよくわかる。ユーグとてルシアンを悲しませたくはないし、不幸にしたくもない。
「わかりました。できる限りのことをします。上手くゆくかはわかりませんが」
主の感情が移ったのか。ユーグも眉を寄せてどこか苦しそうな表情をしていた。
庭園では、既に散策が始まっていた。
「リヴェール国王陛下は末娘であるキトリィ王女様を大変可愛がっております。トレゾールであれば安心できると申しておりまして、両陛下にくれぐれもよろしくと」
リヴェール大使は庭園で軽装に身を包んだ皇帝と皇后の機嫌を取りながら、自国の王女について話した。
「そうおっしゃっていただけるのは有り難いことですわ。でも、肝心の王女はどちらに? 皇太子と親睦を深めるのが良いと思いますが」
「は、はぁ、まだお支度に時間がかかっておいでのようで……。ところで、皇太子様は?」
「そういえば遅いですね」
皇后は後ろについてた侍女を一人ルシアンの私室へ向かわせた。
すると、カーネーションの花壇の向こう側を、ドレスを翻し、限りなく走るのに近い早足で過ぎてゆく姿が見えた。
「あれは、リゼット嬢。まぁ、はしたない。一体何を追いかけているのやら」
皇后は少し眉をしかめた。もちろんリゼットが追いかけているのはキトリィ王女だった。
王女はスカートがめくれて足が見えるのもお構いなしに、垣根や花壇の間をすいすいと走ってゆく。元農民で、最近はダンスの基礎練習を続けているリゼットでも息が切れるほどの早さと体力だった。
リゼットはなるべく目立たぬように可能な限りの急ぎ足で、なんとかキトリィの背中を見失わないようにするのに必死だった。途中で他の令嬢や貴族たちとすれ違ったり、ぶつかったりしたが、丁寧に謝ることもできなかった。
(これ、絶対に淑女失格の振る舞いだわ)
とにかくシモンの毒牙から王女を守るのが先決だと、出来レースの皇太子妃選びなど忘れて、とにかく追いかけた。
キトリィは遂に庭園の隅に到達した。白い建物の壁を前にして逃げ場を失って立ち止る。リゼットはもう人の目がないのを良いことに、スカートをたくし上げて全力疾走した。しかしリゼットが近づく寸前で、キトリィはくるりと身を翻して、壁の右端の小さな木戸の中へ入ってしまった。
リゼットも追いかけて扉を開ける。中は小奇麗なつくりになっていて、絨毯が敷かれた廊下が左に伸びていて、部屋が並んでいる。
手前の部屋から一つ一つ確かめる。そして三つ目の部屋で、遂にキトリィを見つけた。中央にしつらえられたテーブルの長いテーブルクロスの下に、黄緑のスカートがはみ出している。というより、四つん這いになってテーブルの下に上半身を突っ込んだだけで、お尻より下は丸見えだった。まさに頭隠して尻隠さず。
「捕まえた! もう逃げられませんわよ」
その隠れ方が幼気で可愛かったので、思わず顔がほころんだ。お尻に抱きつくようにすると、キトリィはキャッと声を上げて、笑いながらテーブルの下から這い出てきた。
さて、やっとリゼットが事情を説明しようとすると、部屋の外から足音がした。
「王女様? お声が聞こえましたけれど」
足音はすぐにドアの前に来た。扉が開くと、現れたのはアンリエットだった。生成り色の柔らかい生地を重ねて、ブラウンのリボンをアクセントとした、春らしく軽やかで、貞淑な印象のドレスを身にまとっている。
「お支度の途中で姿が見えなくなったと思ったら……。あら、あなたは?」
アンリエットはリゼットを見て首を傾げた。リゼットは慌ててお辞儀して名乗った。
「この人と鬼ごっこしたのよ」
キトリィが無邪気に言った。そう思っているのはキトリィだけだったが、こうなった顛末をどう説明すればいいかわからなかったので、リゼットはとりあえず首を縦に振った。
「王女様のお相手をしてくださったのですね。ありがとうございます。王女様、もう散策は始まっていますから、急いで御髪を整えて」
アンリエットは優しく微笑みかけてきた。それからキトリィの手を取る。
「いや! キツイ編み込みのあの髪型、頭が痛くなるの。それにここの人たちはもっとおしゃれな髪だわ」
「リヴェールの王室の伝統的な髪型ですから」
「嫌ったら嫌! 同じ三つ編みでもこんなのがいい!」
キトリィはリゼットの頭を指さした。
どうやら、キトリィはかなり子供っぽく我儘なようだ。アンリエットが優しく促しても、部屋に座り込んで梃子でも動こうとしない。
「……あの、わたくしと同じ髪型でよろしければ、王女様の髪をセットいたしますわ」
そうすれば、少なくともその間はシモンに見つからない。キトリィは大喜びして、リゼットの手を引っぱって二階へ連れて行った。アンリエットは眉を下げて困り笑いをしながらその後に続いた。
ここは宮廷の迎賓館で、キトリィたちはここに逗留しているとのことだった。キトリィに与えられた部屋で、上質な櫛を使って巻き毛を丁寧にほぐす。アンリエットは申し訳なさそうに斜め後ろに立っていた。
「皇太子妃候補のご令嬢にこんなことをさせてしまって、申し訳ございません」
「とんでもございませんわ」
リゼットはキトリィの丸い頭にあうように、少し加減しながら三つ編みをしていった。全て編み切ってしまって止めると、アンリエットが仕上げに黄色いリボンを手渡してきた。それを耳の後ろ側の両サイドに飾って完成だ。
キトリィは大喜びして、しきりに鏡に自分の姿を映していた。リゼットとアンリエットは、無邪気にはしゃぐキトリィを微笑ましく見つめていたので、自然と目が合った。
「頼む、ほんの少しの時間で良いんだ」
皇太子が従者に頭を下げるなど、通常はあり得ないこと。それまでして懇願するのは、アンリエットとの会話の時間だ。散策が始まれば令嬢たちはルシアンに群がって、自由に動けないだろう。だから上手く彼女たちを上手く
まいて
アンリエットと二人きりになりたいというのだ。「いけません。アンリエット様はもうリヴェールの侯爵夫人ですよ。密会などしたら、お互いに悪い影響があります。それにあの方に頼んだところで、リヴェール王家が婚姻の申し入れを断るわけはないでしょう」
「王女はまだ14歳だぞ! わたしより七つも年下だ」
「王家の婚姻には、十も年が離れていた例もあります」
「キトリィ王女と結婚しろというのか? わたしに幼女趣味はないぞ」
「殿下がお望みでないのはわかりますが、それは他の令嬢たちも同じです。殿下が心から添い遂げたいと思う人がいないならば、高貴な王家の血筋で、リヴェールとの良好な友好関係に資する王女様が、最善だと思うだけです。
それに、王女様のことは口実で、本当はアンリエット様とお話したいだけなのではないですか?」
図星を指され、ルシアンは少し怯んだようだった。
「アンリエットに恋していたのは昔の話だ。ただ子供の憧れだというのに、お前まで焼き餅か?」
「もう終わったことだと言えるのですか? 殿下のご様子からはそう思えません」
ルシアンはふと口をつぐんで、悲しげな瞳を揺らした。
「終わっていないのかもしれない。だが、だとしたら終わらせるためにも、彼女と話がしたいんだ。頼むユーグ、わたしの味方はお前しかいない」
これが従者を篭絡するための演技でないことは長年仕えているからよくわかる。ユーグとてルシアンを悲しませたくはないし、不幸にしたくもない。
「わかりました。できる限りのことをします。上手くゆくかはわかりませんが」
主の感情が移ったのか。ユーグも眉を寄せてどこか苦しそうな表情をしていた。
庭園では、既に散策が始まっていた。
「リヴェール国王陛下は末娘であるキトリィ王女様を大変可愛がっております。トレゾールであれば安心できると申しておりまして、両陛下にくれぐれもよろしくと」
リヴェール大使は庭園で軽装に身を包んだ皇帝と皇后の機嫌を取りながら、自国の王女について話した。
「そうおっしゃっていただけるのは有り難いことですわ。でも、肝心の王女はどちらに? 皇太子と親睦を深めるのが良いと思いますが」
「は、はぁ、まだお支度に時間がかかっておいでのようで……。ところで、皇太子様は?」
「そういえば遅いですね」
皇后は後ろについてた侍女を一人ルシアンの私室へ向かわせた。
すると、カーネーションの花壇の向こう側を、ドレスを翻し、限りなく走るのに近い早足で過ぎてゆく姿が見えた。
「あれは、リゼット嬢。まぁ、はしたない。一体何を追いかけているのやら」
皇后は少し眉をしかめた。もちろんリゼットが追いかけているのはキトリィ王女だった。
王女はスカートがめくれて足が見えるのもお構いなしに、垣根や花壇の間をすいすいと走ってゆく。元農民で、最近はダンスの基礎練習を続けているリゼットでも息が切れるほどの早さと体力だった。
リゼットはなるべく目立たぬように可能な限りの急ぎ足で、なんとかキトリィの背中を見失わないようにするのに必死だった。途中で他の令嬢や貴族たちとすれ違ったり、ぶつかったりしたが、丁寧に謝ることもできなかった。
(これ、絶対に淑女失格の振る舞いだわ)
とにかくシモンの毒牙から王女を守るのが先決だと、出来レースの皇太子妃選びなど忘れて、とにかく追いかけた。
キトリィは遂に庭園の隅に到達した。白い建物の壁を前にして逃げ場を失って立ち止る。リゼットはもう人の目がないのを良いことに、スカートをたくし上げて全力疾走した。しかしリゼットが近づく寸前で、キトリィはくるりと身を翻して、壁の右端の小さな木戸の中へ入ってしまった。
リゼットも追いかけて扉を開ける。中は小奇麗なつくりになっていて、絨毯が敷かれた廊下が左に伸びていて、部屋が並んでいる。
手前の部屋から一つ一つ確かめる。そして三つ目の部屋で、遂にキトリィを見つけた。中央にしつらえられたテーブルの長いテーブルクロスの下に、黄緑のスカートがはみ出している。というより、四つん這いになってテーブルの下に上半身を突っ込んだだけで、お尻より下は丸見えだった。まさに頭隠して尻隠さず。
「捕まえた! もう逃げられませんわよ」
その隠れ方が幼気で可愛かったので、思わず顔がほころんだ。お尻に抱きつくようにすると、キトリィはキャッと声を上げて、笑いながらテーブルの下から這い出てきた。
さて、やっとリゼットが事情を説明しようとすると、部屋の外から足音がした。
「王女様? お声が聞こえましたけれど」
足音はすぐにドアの前に来た。扉が開くと、現れたのはアンリエットだった。生成り色の柔らかい生地を重ねて、ブラウンのリボンをアクセントとした、春らしく軽やかで、貞淑な印象のドレスを身にまとっている。
「お支度の途中で姿が見えなくなったと思ったら……。あら、あなたは?」
アンリエットはリゼットを見て首を傾げた。リゼットは慌ててお辞儀して名乗った。
「この人と鬼ごっこしたのよ」
キトリィが無邪気に言った。そう思っているのはキトリィだけだったが、こうなった顛末をどう説明すればいいかわからなかったので、リゼットはとりあえず首を縦に振った。
「王女様のお相手をしてくださったのですね。ありがとうございます。王女様、もう散策は始まっていますから、急いで御髪を整えて」
アンリエットは優しく微笑みかけてきた。それからキトリィの手を取る。
「いや! キツイ編み込みのあの髪型、頭が痛くなるの。それにここの人たちはもっとおしゃれな髪だわ」
「リヴェールの王室の伝統的な髪型ですから」
「嫌ったら嫌! 同じ三つ編みでもこんなのがいい!」
キトリィはリゼットの頭を指さした。
どうやら、キトリィはかなり子供っぽく我儘なようだ。アンリエットが優しく促しても、部屋に座り込んで梃子でも動こうとしない。
「……あの、わたくしと同じ髪型でよろしければ、王女様の髪をセットいたしますわ」
そうすれば、少なくともその間はシモンに見つからない。キトリィは大喜びして、リゼットの手を引っぱって二階へ連れて行った。アンリエットは眉を下げて困り笑いをしながらその後に続いた。
ここは宮廷の迎賓館で、キトリィたちはここに逗留しているとのことだった。キトリィに与えられた部屋で、上質な櫛を使って巻き毛を丁寧にほぐす。アンリエットは申し訳なさそうに斜め後ろに立っていた。
「皇太子妃候補のご令嬢にこんなことをさせてしまって、申し訳ございません」
「とんでもございませんわ」
リゼットはキトリィの丸い頭にあうように、少し加減しながら三つ編みをしていった。全て編み切ってしまって止めると、アンリエットが仕上げに黄色いリボンを手渡してきた。それを耳の後ろ側の両サイドに飾って完成だ。
キトリィは大喜びして、しきりに鏡に自分の姿を映していた。リゼットとアンリエットは、無邪気にはしゃぐキトリィを微笑ましく見つめていたので、自然と目が合った。