第二章 レーブジャルダン家 第七話
文字数 3,006文字
医者がやってきて、脈を診たり、頭を触ったり、腕や足を動かしたり、指を立てて目の前で動かしたりした。万が一体に異常が残っていないか確認したかったのだろう。
その様子を子爵夫妻は寄り添って心配そうに眺めていた。医者が問題ないというと、ようやく肩の力を抜いた。
リゼットはその後、孤児院へ出かけることにした。医者が帰る準備をしている間にさっさと両親と約束を取り付けてしまったのだ。流石のシモンも、赤の他人の目の前で強く反対はできなかった。
(必要ないのに行儀見習いとか教養を身に着けるとか、そんな無駄なことですり減らしたくないわ。そういうのはもう前の人生でお腹いっぱいなのよ)
こちらも何か言いたそうなノエルに着替えさせてもらい、昼食を摂り、帽子と薄手のマントを羽織って屋敷の玄関を出た。
レーブジャルダン家はなだらかな低い丘の上に立っていた。丘の周辺には民家はなく、野原が広がり、丁度丘を囲むように、古びた鉄の柵がめぐらされている。玄関の右手には花壇と思しきものがあり、そこからが小さな庭となっていた。丁度広間から見えるようになっている。今は季節でないため寂しいが、暖かくなればきっと色々な花が咲いて美しいのだろう。
リゼットが夢中で景色を見回していると、左手のほうからガタゴトという音がした。見ると二頭の馬に引かせた馬車がやってきた。四角くて、窓も小さく、素朴ではあったが、それでも人が乗れる立派な馬車である。家令が用意してくれた踏み台を上がって、両親のあとに馬車に乗り込んだ。踏み台も馬車の扉も、きぃきぃと音を立てていた。
鞭の音がして馬車が出発した。常に続く小刻みな揺れと不意にやってくる大きな揺れが、予想以上に乗り心地を悪くしていたが、馬車に乗るなんてお姫様になったような心地で、そんなことはまったく気にせず、窓の外の流れてゆく風景を眺めていた。
馬車が屋敷から離れるほどに、景色の畑や家といった人の手によるものが増えてきた。それはどんどん増えてゆき、いつしか、町と呼べる風景になっていた。
街角にぼろを着て、髭も髪も伸び放題のみすぼらしい男がいた。男は馬車を見るとよたよたと、だが素早い動きで馬車に近づき、何かしきりに訴えてくる。
「停めてくれ」
子爵は馬車を止めると、扉を開けて半身を外に出した。リゼットは扉から離れて熱心に見つめていた窓側に体をくっつけた。
男はいつの間にか扉の前に回り込んでいた。
「旦那様、どうかお恵みを。仕事がなくなって、明日食べるパンもないのです。それにこの通り、病気になってしまって……」
男は髭をかき分けて顔を見せた。顔中に赤っぽい発疹があった。痛々しくてリゼットは思わず眉をしかめた。
子爵はその男を遠ざけようとせず、懐から財布を取り出し、いくらか硬貨を渡してやった。
「かわいそうに。さぁ、少ないかもしれないが、パンを一切れと、医者にかかるくらいはできるだろう。まずは体を直すことが先なのだから、医者にいきなさい」
「教会の隣には、貧しい人のための医院があるから、そこへ行ってごらんなさい」
子爵夫人も馬車の中からそう語り掛ける。
「ありがとうごぜぇます。ありがとうごぜぇます」
物乞いの男は感謝の言葉を繰り返し唱えて、道の隅っこへ引き下がった。子爵が扉を閉じて、再び馬車が動き出す。
「お父様、お優しいのね」
リゼットは男が去ったのでほっとしていた。子爵は優しい微笑みを浮かべて答えた。
「残念ながら、この世界には持てる者と持たざる者がいる。我々貴族は持てる側の人間だ。だから貧しい人々には、我々が持っている物を分け与えるのだよ。それにここは我が家の領地だ。領民たちの生活がよりよくなるようにするのは、領主たり私の義務だと思っているんだよ」
孤児院へ行くのも慈善活動の一環だという。町の中にある教会に併設された孤児院は、子爵家からの援助で成り立っている。到着すると、シスターが子供たちを連れて出迎えに来た。子爵夫人は持ってきていた籠を手渡した。中にはクッキーが入っていた。子供たちは大喜びして、早く食べたいとシスターを急かしていた。
「何か変わったことはないかね? 足りないものとか」
「有り難いことです。子供たちの靴が足りなくて、何人かの子は裸足で過ごしています」
「まぁ、裸足なんて、石や木の枝で足を怪我したら大変だわ。今日持ってきたお金があるから、それで早速何足か買ってあげて」
子爵夫人はそういって、手提げバッグの中から巾着の入った袋を取り出し、シスターに握らせた。
「有り難いことです。子爵様ご夫妻のおかげで、親のいないこの子達も人並みに生活できます」
「当然のことをしているまでだ。これからも困ったことがあったら、何でも言いなさい」
ノブレスオブリージュというやつだろう。西洋では浸透した考えだと聞いたことがあるが、その善行を目の当たりにして、リゼットは感動した。芝居の中では、貴族というのは平民を見下し踏みつける悪い存在として描かれることもある。
(この世界のお父様とお母様は、貧しい人を見下さずに手を差し伸べる、良い貴族なんだわ)
シスターと子供たちに慈愛に満ちた眼差しを向ける両親を見つめていると、子爵夫人から子供たちと外で遊んでくるように促された。子供たちは薄汚れた服を着て、痩せて手足は細かったが、著しく栄養不足という様子もなく、明るく笑ってまとわりついてきた。
「お嬢様、木登りしましょうよ。この前表のりんごの木に登りましたよね」
「噴水で水遊びもしました」
無邪気に誘われる遊びの内容が、なかなか貴族の令嬢らしくなくて、リゼットは目を白黒させた。
(わたしってずいぶんお転婆なお嬢様だったのね)
いかに18歳の肉体とはいえ、そんな子供のような遊びをすることは憚られた。しかし両親は金品で彼らを助けているのだから、自分も彼らを楽しませたい。
「それなら、踊りはどうかしら?」
リゼットは子供たちの前に出て、スカートを両手でつまみ、上手くさばきながら、簡単なステップを、一つ二つ踏んでみた。
「お嬢様すごーい!」
「綺麗な踊り、もっと見せて!」
「ええ? 一緒に踊ろうと思っていたのに、見るだけでいいの? じゃあ……」
リゼットはショーのプロローグの振り付けを軽く踊って見せた。以前の自分の肉体とは違うはずなのに、不思議と動きを覚えているし、それなりに動ける。きっと活発で体を動かすの好きな娘だったからだろう。
この時代の一般的な踊りとは趣が異なっていたからか、子供たちは大喜びして、もっともっととせがんだので、他のダンスナンバーや、過去の作品のダンス、それからバレエのバリエーションを見せた。
「素敵な踊りだわ、あなたにこんな才能が有ったなんて!」
シスターとの話が終わって表に出てきた子爵夫妻も、彼女の踊りを見て喜び、褒めそやした。
「いいえ、別に大した踊りじゃないですけれど」
「何を言うんだ。素敵じゃないか。劇場の踊り子だって、こんなに上手な娘はいないだろう。子供たちも喜んでいるし、素晴らしいことだよ」
こうも褒められるのは久しぶりで、お世辞や贔屓目が入っているとわかっていても、リゼットは浮ついた笑顔がおさえられなかった。
「あなたが貧しい子たちにも優しくしてくれてうれしいわ。シモンは一度だって孤児院に顔を出したことがないのよ」
帰りの馬車の中で子爵夫人は息子への不満を漏らした。
その様子を子爵夫妻は寄り添って心配そうに眺めていた。医者が問題ないというと、ようやく肩の力を抜いた。
リゼットはその後、孤児院へ出かけることにした。医者が帰る準備をしている間にさっさと両親と約束を取り付けてしまったのだ。流石のシモンも、赤の他人の目の前で強く反対はできなかった。
(必要ないのに行儀見習いとか教養を身に着けるとか、そんな無駄なことですり減らしたくないわ。そういうのはもう前の人生でお腹いっぱいなのよ)
こちらも何か言いたそうなノエルに着替えさせてもらい、昼食を摂り、帽子と薄手のマントを羽織って屋敷の玄関を出た。
レーブジャルダン家はなだらかな低い丘の上に立っていた。丘の周辺には民家はなく、野原が広がり、丁度丘を囲むように、古びた鉄の柵がめぐらされている。玄関の右手には花壇と思しきものがあり、そこからが小さな庭となっていた。丁度広間から見えるようになっている。今は季節でないため寂しいが、暖かくなればきっと色々な花が咲いて美しいのだろう。
リゼットが夢中で景色を見回していると、左手のほうからガタゴトという音がした。見ると二頭の馬に引かせた馬車がやってきた。四角くて、窓も小さく、素朴ではあったが、それでも人が乗れる立派な馬車である。家令が用意してくれた踏み台を上がって、両親のあとに馬車に乗り込んだ。踏み台も馬車の扉も、きぃきぃと音を立てていた。
鞭の音がして馬車が出発した。常に続く小刻みな揺れと不意にやってくる大きな揺れが、予想以上に乗り心地を悪くしていたが、馬車に乗るなんてお姫様になったような心地で、そんなことはまったく気にせず、窓の外の流れてゆく風景を眺めていた。
馬車が屋敷から離れるほどに、景色の畑や家といった人の手によるものが増えてきた。それはどんどん増えてゆき、いつしか、町と呼べる風景になっていた。
街角にぼろを着て、髭も髪も伸び放題のみすぼらしい男がいた。男は馬車を見るとよたよたと、だが素早い動きで馬車に近づき、何かしきりに訴えてくる。
「停めてくれ」
子爵は馬車を止めると、扉を開けて半身を外に出した。リゼットは扉から離れて熱心に見つめていた窓側に体をくっつけた。
男はいつの間にか扉の前に回り込んでいた。
「旦那様、どうかお恵みを。仕事がなくなって、明日食べるパンもないのです。それにこの通り、病気になってしまって……」
男は髭をかき分けて顔を見せた。顔中に赤っぽい発疹があった。痛々しくてリゼットは思わず眉をしかめた。
子爵はその男を遠ざけようとせず、懐から財布を取り出し、いくらか硬貨を渡してやった。
「かわいそうに。さぁ、少ないかもしれないが、パンを一切れと、医者にかかるくらいはできるだろう。まずは体を直すことが先なのだから、医者にいきなさい」
「教会の隣には、貧しい人のための医院があるから、そこへ行ってごらんなさい」
子爵夫人も馬車の中からそう語り掛ける。
「ありがとうごぜぇます。ありがとうごぜぇます」
物乞いの男は感謝の言葉を繰り返し唱えて、道の隅っこへ引き下がった。子爵が扉を閉じて、再び馬車が動き出す。
「お父様、お優しいのね」
リゼットは男が去ったのでほっとしていた。子爵は優しい微笑みを浮かべて答えた。
「残念ながら、この世界には持てる者と持たざる者がいる。我々貴族は持てる側の人間だ。だから貧しい人々には、我々が持っている物を分け与えるのだよ。それにここは我が家の領地だ。領民たちの生活がよりよくなるようにするのは、領主たり私の義務だと思っているんだよ」
孤児院へ行くのも慈善活動の一環だという。町の中にある教会に併設された孤児院は、子爵家からの援助で成り立っている。到着すると、シスターが子供たちを連れて出迎えに来た。子爵夫人は持ってきていた籠を手渡した。中にはクッキーが入っていた。子供たちは大喜びして、早く食べたいとシスターを急かしていた。
「何か変わったことはないかね? 足りないものとか」
「有り難いことです。子供たちの靴が足りなくて、何人かの子は裸足で過ごしています」
「まぁ、裸足なんて、石や木の枝で足を怪我したら大変だわ。今日持ってきたお金があるから、それで早速何足か買ってあげて」
子爵夫人はそういって、手提げバッグの中から巾着の入った袋を取り出し、シスターに握らせた。
「有り難いことです。子爵様ご夫妻のおかげで、親のいないこの子達も人並みに生活できます」
「当然のことをしているまでだ。これからも困ったことがあったら、何でも言いなさい」
ノブレスオブリージュというやつだろう。西洋では浸透した考えだと聞いたことがあるが、その善行を目の当たりにして、リゼットは感動した。芝居の中では、貴族というのは平民を見下し踏みつける悪い存在として描かれることもある。
(この世界のお父様とお母様は、貧しい人を見下さずに手を差し伸べる、良い貴族なんだわ)
シスターと子供たちに慈愛に満ちた眼差しを向ける両親を見つめていると、子爵夫人から子供たちと外で遊んでくるように促された。子供たちは薄汚れた服を着て、痩せて手足は細かったが、著しく栄養不足という様子もなく、明るく笑ってまとわりついてきた。
「お嬢様、木登りしましょうよ。この前表のりんごの木に登りましたよね」
「噴水で水遊びもしました」
無邪気に誘われる遊びの内容が、なかなか貴族の令嬢らしくなくて、リゼットは目を白黒させた。
(わたしってずいぶんお転婆なお嬢様だったのね)
いかに18歳の肉体とはいえ、そんな子供のような遊びをすることは憚られた。しかし両親は金品で彼らを助けているのだから、自分も彼らを楽しませたい。
「それなら、踊りはどうかしら?」
リゼットは子供たちの前に出て、スカートを両手でつまみ、上手くさばきながら、簡単なステップを、一つ二つ踏んでみた。
「お嬢様すごーい!」
「綺麗な踊り、もっと見せて!」
「ええ? 一緒に踊ろうと思っていたのに、見るだけでいいの? じゃあ……」
リゼットはショーのプロローグの振り付けを軽く踊って見せた。以前の自分の肉体とは違うはずなのに、不思議と動きを覚えているし、それなりに動ける。きっと活発で体を動かすの好きな娘だったからだろう。
この時代の一般的な踊りとは趣が異なっていたからか、子供たちは大喜びして、もっともっととせがんだので、他のダンスナンバーや、過去の作品のダンス、それからバレエのバリエーションを見せた。
「素敵な踊りだわ、あなたにこんな才能が有ったなんて!」
シスターとの話が終わって表に出てきた子爵夫妻も、彼女の踊りを見て喜び、褒めそやした。
「いいえ、別に大した踊りじゃないですけれど」
「何を言うんだ。素敵じゃないか。劇場の踊り子だって、こんなに上手な娘はいないだろう。子供たちも喜んでいるし、素晴らしいことだよ」
こうも褒められるのは久しぶりで、お世辞や贔屓目が入っているとわかっていても、リゼットは浮ついた笑顔がおさえられなかった。
「あなたが貧しい子たちにも優しくしてくれてうれしいわ。シモンは一度だって孤児院に顔を出したことがないのよ」
帰りの馬車の中で子爵夫人は息子への不満を漏らした。