第十三章 愛の成就へ 第一話
文字数 2,952文字
王宮の広間には既に投票箱が設置され、貴族たちが数十人集まっていた。まだ投票するに早い。きっと物珍しくて見物に来たのだ。
投票箱は広間の中央奥、大きな階段の手前に二つ並んでおり、メリザンドとリゼットの氏名が書いた紙が貼ってあった。隅の方には三つの投票箱が乱雑に追いやられていた。キトリィやリアーヌのものだったのだろう。
皇帝夫妻からは、ここで会うと申し渡されていた。リゼットは久しぶりに王宮に、そして社交界の人々の前に現れたので、貴族たちは遠巻きにその姿を眺めて、少し見ない間に顔色が悪くなったとか、いや思いの外元気そうだとか、皇太子に袖にされた心中やいかにとか、ひそひそ耳打ちしあった。
皇帝夫妻に会う前に、もう一人の注目人物が現れた。メリザンドである。自然、リゼットと視線が合わさる。二人の令嬢は広間の真ん中で、互いにお辞儀をした。
「ごきげんよう。しばらくお姿をお見かけしませんでしたから、どうなさったのかと心配しておりましたわ。先の舞踏会ではあんな事が起きてしまって、さぞご心痛だったことでしょう」
「お気遣い感謝しますわ。ですが、もう何日も経っておりますから、心は落ち着きました」
「そう。悪いことはすぐに記憶からなくなってしまうのかしら。羨ましい限りですわ。ではあの時のお気持ちも、すっかりなくなったということはございませんの?」
「あの時の気持ちとは……」
「それはあの舞踏会の時にあった、殿下とあなたの間のもの。まぁ、実際は殿下にはなくて、あなただけにあったということでしたけれど」
「殿下をお慕いする気持ち、ということですわね」
メリザンドはリゼットが選挙に出るのか出ないのか、それを問うていた。
「殿下をお慕いする気持ちは、今もありますわ。ずいぶん小さくなりましたけれど」
「それはそうでしょう。わたくしとて最後のダンスに誘われなかったのですから、そのお心はよくわかりますわ。でも、ずいぶん小さくなったというそのお気持ちでもって、殿下の妃の座を欲するのですか?」
「妃の座、いいえ、わたくしが選挙に出るのは、ほかならぬ殿下のためですわ」
「殿下のため? ご自身が皇太子妃になるのが殿下のためだとおっしゃるの、まぁ、お屋敷に引きこもっている間に随分自信をおつけになったのね」
「違いますわ。殿下が愛を貫き、本当の幸せをつかみ取ることが、殿下のため、そして多くの人のためなのです。わたくしはそのために選挙を戦いますわ。そしてメリザンド様に皇太子妃の座を譲りはしません」
それを聞いた途端、メリザンドは柳眉を逆立てて怒りをあらわにした。
「殿下のために全てを捧げられるのがあなただけだとでも? とんだ思い上がりです。わたくしとて、殿下に愛を全うさせることくらい、わけありませんわ。それに加えて、皇太子妃としての責務も立派に果たす自信があります。平民上がりのあなたには、それは少々荷が重いのではなくて」
彼女はあくまでルシアンが男色家で、その従者は男という前提に立っている。彼女の言う皇太子の愛と、リゼットの言うそれとは、そもそも意味が違っている。ルシアンのために、という言葉も、リゼットはソフィの名誉回復を成し遂げルシアンと結ばれるために、他の令嬢が皇太子妃に選ばれるのをを阻止することを指して使っているが、メリザンドのほうはお飾りの皇太子妃になり、男色に目をつむることを指している。
リゼットは向けられた怒りに対抗するでなく、友人を気遣うように訊ねた。
「メリザンド様はそれでいいのですか? ご自身を犠牲にしてまで殿下に尽くして、しきたりでがんじがらめの王宮で重い責務を果たし続けて、それが皇太子妃の、未来の皇后の路だというなら、そこにメリザンド様の幸せはありますの?」
「なにをおっしゃるかと思えば。おとぼけもいい加減になさって。わたくしの幸せは、幼いころから定められたように、殿下と結ばれて、皇太子妃という栄光を戴き、末永く殿下と皇室を支えることです。そしてこれこそが、このトレゾールのあるべき姿なのです。あるべき路をたどらないほうが、不幸になりますわ」
気高く宣言するメリザンドは美しかったが、その輝きの後ろに影が長く引いている影がリゼットには見えていた。
「そうですか。ではもう何も申しません。メリザンド様はご自身の信じる路をお行き下さい。わたくしは別の路を進みます。定められた通りではないけれど、この路の先に殿下の、そしてみんなの幸せがあると信じて。そしてそれは、メリザンド様にとっても幸せであることを願っていますわ」
いつの間にか皇帝夫妻は広間に現れていた。二人のやり取りを止めるのは憚られて、黙って見見守っていたのだ。リゼットはそれに気が付いて、慌ててお辞儀をすると、改めて選挙に出馬すると申し出た。皇帝は一連のリゼットの決意を聞いていたので、重々しく頷いた。
「見ていてごらんなさい。物ごとはいつでもあるべき路をたどるのだと、最後にはあなたも思い知るはずです」
メリザンドはもう一度リゼットに宣戦布告してから皇后について広間を後にした。彼女が行ってしまうと、リゼットは一気に体の力が抜けてよろけた。友人たちがそれを支えてくれる。
「立派だったわリゼット。こうなったらメリザンド様に遠慮なんてせず、とことんやりぬきましょう」
「まぁ、それよりも先にシモン様が良い知らせを持ってきてくれるのが一番だけれどね。それにしても、メリザンド様は真実を知らないで頑なになっているだから、見ていられないわ」
リゼットもサビーナの意見に同意だった。やはり一刻も早く全てを明かしたい。
「そういえば、シモン様は向うに着いて落ち着いたら知らせをよこすとおっしゃっていました。もうそろそろ知らせがあってもいいころですわ。お屋敷に帰って待ちましょう」
「そうね。そして、リゼットが勝てるように、選挙運動の作戦を練らなくては」
皇太子妃候補二人の宣戦布告を目の当たりにして、やや興奮している貴族たちを置いて、リゼットたちは急いでポーラック邸へ戻った。
果たしてその日の午後、シモンから便りが届いた。リゼットたちは額を寄せ合って手紙を読み進めた。
ソンルミエール家の領地に着いたシモンは、早速盛り場を渡り歩き、治安が悪く、ごろつきが集まっているような場所をいくつか特定した。都の商人のふりをして潜入し、密輸のために偽造文書が必要だと言って、その筋の人間を探す。
「旦那、そいつぁちょっと聞けませんぜ。うちはこのとおり、腕っぷしの強い男どもは揃えてますがね、お役所の文章を真似するなんて器用な真似ができるような奴はおりませんよ」
そういう酒場で店主に話を持ち掛けたが、首を振られたので、シモンは懐から金を取り出しいくらか握らせた。それでも出し惜しみしているようなので、他を当たると言って席を立つ。すると店主が慌てて引き留めてきて、一人そういう人間を知っていると言い、明日引き合わせると約束を取り付けた。
「やりましたねシモン様。これでソンルミエール家とつながりのある人間だったら、思ったより早く決着がつきます」
「浮かれるのはまだ早い。そうと決まったわけではないぞ」
翌日もう一度店に行くと、隅の方に男が座っていた。年齢は二十歳そこそこと若かった。
投票箱は広間の中央奥、大きな階段の手前に二つ並んでおり、メリザンドとリゼットの氏名が書いた紙が貼ってあった。隅の方には三つの投票箱が乱雑に追いやられていた。キトリィやリアーヌのものだったのだろう。
皇帝夫妻からは、ここで会うと申し渡されていた。リゼットは久しぶりに王宮に、そして社交界の人々の前に現れたので、貴族たちは遠巻きにその姿を眺めて、少し見ない間に顔色が悪くなったとか、いや思いの外元気そうだとか、皇太子に袖にされた心中やいかにとか、ひそひそ耳打ちしあった。
皇帝夫妻に会う前に、もう一人の注目人物が現れた。メリザンドである。自然、リゼットと視線が合わさる。二人の令嬢は広間の真ん中で、互いにお辞儀をした。
「ごきげんよう。しばらくお姿をお見かけしませんでしたから、どうなさったのかと心配しておりましたわ。先の舞踏会ではあんな事が起きてしまって、さぞご心痛だったことでしょう」
「お気遣い感謝しますわ。ですが、もう何日も経っておりますから、心は落ち着きました」
「そう。悪いことはすぐに記憶からなくなってしまうのかしら。羨ましい限りですわ。ではあの時のお気持ちも、すっかりなくなったということはございませんの?」
「あの時の気持ちとは……」
「それはあの舞踏会の時にあった、殿下とあなたの間のもの。まぁ、実際は殿下にはなくて、あなただけにあったということでしたけれど」
「殿下をお慕いする気持ち、ということですわね」
メリザンドはリゼットが選挙に出るのか出ないのか、それを問うていた。
「殿下をお慕いする気持ちは、今もありますわ。ずいぶん小さくなりましたけれど」
「それはそうでしょう。わたくしとて最後のダンスに誘われなかったのですから、そのお心はよくわかりますわ。でも、ずいぶん小さくなったというそのお気持ちでもって、殿下の妃の座を欲するのですか?」
「妃の座、いいえ、わたくしが選挙に出るのは、ほかならぬ殿下のためですわ」
「殿下のため? ご自身が皇太子妃になるのが殿下のためだとおっしゃるの、まぁ、お屋敷に引きこもっている間に随分自信をおつけになったのね」
「違いますわ。殿下が愛を貫き、本当の幸せをつかみ取ることが、殿下のため、そして多くの人のためなのです。わたくしはそのために選挙を戦いますわ。そしてメリザンド様に皇太子妃の座を譲りはしません」
それを聞いた途端、メリザンドは柳眉を逆立てて怒りをあらわにした。
「殿下のために全てを捧げられるのがあなただけだとでも? とんだ思い上がりです。わたくしとて、殿下に愛を全うさせることくらい、わけありませんわ。それに加えて、皇太子妃としての責務も立派に果たす自信があります。平民上がりのあなたには、それは少々荷が重いのではなくて」
彼女はあくまでルシアンが男色家で、その従者は男という前提に立っている。彼女の言う皇太子の愛と、リゼットの言うそれとは、そもそも意味が違っている。ルシアンのために、という言葉も、リゼットはソフィの名誉回復を成し遂げルシアンと結ばれるために、他の令嬢が皇太子妃に選ばれるのをを阻止することを指して使っているが、メリザンドのほうはお飾りの皇太子妃になり、男色に目をつむることを指している。
リゼットは向けられた怒りに対抗するでなく、友人を気遣うように訊ねた。
「メリザンド様はそれでいいのですか? ご自身を犠牲にしてまで殿下に尽くして、しきたりでがんじがらめの王宮で重い責務を果たし続けて、それが皇太子妃の、未来の皇后の路だというなら、そこにメリザンド様の幸せはありますの?」
「なにをおっしゃるかと思えば。おとぼけもいい加減になさって。わたくしの幸せは、幼いころから定められたように、殿下と結ばれて、皇太子妃という栄光を戴き、末永く殿下と皇室を支えることです。そしてこれこそが、このトレゾールのあるべき姿なのです。あるべき路をたどらないほうが、不幸になりますわ」
気高く宣言するメリザンドは美しかったが、その輝きの後ろに影が長く引いている影がリゼットには見えていた。
「そうですか。ではもう何も申しません。メリザンド様はご自身の信じる路をお行き下さい。わたくしは別の路を進みます。定められた通りではないけれど、この路の先に殿下の、そしてみんなの幸せがあると信じて。そしてそれは、メリザンド様にとっても幸せであることを願っていますわ」
いつの間にか皇帝夫妻は広間に現れていた。二人のやり取りを止めるのは憚られて、黙って見見守っていたのだ。リゼットはそれに気が付いて、慌ててお辞儀をすると、改めて選挙に出馬すると申し出た。皇帝は一連のリゼットの決意を聞いていたので、重々しく頷いた。
「見ていてごらんなさい。物ごとはいつでもあるべき路をたどるのだと、最後にはあなたも思い知るはずです」
メリザンドはもう一度リゼットに宣戦布告してから皇后について広間を後にした。彼女が行ってしまうと、リゼットは一気に体の力が抜けてよろけた。友人たちがそれを支えてくれる。
「立派だったわリゼット。こうなったらメリザンド様に遠慮なんてせず、とことんやりぬきましょう」
「まぁ、それよりも先にシモン様が良い知らせを持ってきてくれるのが一番だけれどね。それにしても、メリザンド様は真実を知らないで頑なになっているだから、見ていられないわ」
リゼットもサビーナの意見に同意だった。やはり一刻も早く全てを明かしたい。
「そういえば、シモン様は向うに着いて落ち着いたら知らせをよこすとおっしゃっていました。もうそろそろ知らせがあってもいいころですわ。お屋敷に帰って待ちましょう」
「そうね。そして、リゼットが勝てるように、選挙運動の作戦を練らなくては」
皇太子妃候補二人の宣戦布告を目の当たりにして、やや興奮している貴族たちを置いて、リゼットたちは急いでポーラック邸へ戻った。
果たしてその日の午後、シモンから便りが届いた。リゼットたちは額を寄せ合って手紙を読み進めた。
ソンルミエール家の領地に着いたシモンは、早速盛り場を渡り歩き、治安が悪く、ごろつきが集まっているような場所をいくつか特定した。都の商人のふりをして潜入し、密輸のために偽造文書が必要だと言って、その筋の人間を探す。
「旦那、そいつぁちょっと聞けませんぜ。うちはこのとおり、腕っぷしの強い男どもは揃えてますがね、お役所の文章を真似するなんて器用な真似ができるような奴はおりませんよ」
そういう酒場で店主に話を持ち掛けたが、首を振られたので、シモンは懐から金を取り出しいくらか握らせた。それでも出し惜しみしているようなので、他を当たると言って席を立つ。すると店主が慌てて引き留めてきて、一人そういう人間を知っていると言い、明日引き合わせると約束を取り付けた。
「やりましたねシモン様。これでソンルミエール家とつながりのある人間だったら、思ったより早く決着がつきます」
「浮かれるのはまだ早い。そうと決まったわけではないぞ」
翌日もう一度店に行くと、隅の方に男が座っていた。年齢は二十歳そこそこと若かった。