第四章 思わぬライバル 第八話
文字数 2,937文字
歌舞校生の時に、同期数人と連れ立って、宝川大劇場に見学に行った。
他の生徒たちは眩い衣装をまとったトップスターやトップ娘役、その他路線の男役スターに胸をときめかせていたが、大原悦子が目で追っていたのは、藤組の路線娘役の一人、深月 あやめだった。
美貌と穴のない実力で入団当初から路線娘役として活躍してきた彼女が、大原悦子は好きだった。容姿や歌、芝居、ダンスのどれにも魅了されたが、何より娘役としての確かな技術と、プライドが感じられるところに強く惹かれていた。
可憐に控えめに男役に寄り添えば、どんな男役もより一層輝く。しかし一人で立っても十分に人の目を引き付け、時には男役とも対等に渡り合う。それでも女性が演じる女性として、一貫して華奢で嫋やかだった。もちろん、化粧、衣装の着こなし、かつらやアクセサリーのセンス、スカートさばきなど、どれをとっても完成度が高く、常に美しく舞台に立っていた。
あんな娘役になりたい。夢園 さゆりとなって初舞台を踏み、深月あやめと同じ藤組に配属された時、これはチャンスだ。勇気を出して、お手伝いさせてください、と申し出た。
稽古場でも舞台でも慌ただしい場面は沢山あるが、深月あやめはいつも落ち着いていた。まだ右も左もわからない夢園さゆりに手取り足取り指導する時も、声を荒げたり、きつい物言いをすることがなかった。
夢園さゆりにとって彼女は理想だった。実際、多くの下級生や上級生も、娘役の鑑と認めていた。だが彼女はトップ娘役にはなれなかった。トップスターとトップ娘役が同時に退団し、トップ娘役の座が空いたというのに。
理由は、その時彼女が既に研10で、娘役として旬を逃していると思われたこと。時期トップスターが同期で、しかも実年齢は年下だったこと。トップ娘役は男役トップスターよりも下級生で、実年齢も年下でなければならなかった。
結局彼女は、新しいトップスターを迎えて数公演をこなし、研12の時に退団してしまった。退団を告げられ、憧れのスターを惜しむ気持ちと、慕っている先輩がいなくなる不安の狭間に虚しさがあった。美貌、技術、人格、そして娘役力、全てが備わっていても認められないのかと。
男役は路線スターに番手と呼ばれる序列がある。劇団から発表されるわけではないが、パレードの時の羽の大きさとか、ブロマイドの枚数、出版物での扱いなどではっきりとわかる。例外もあるが、基本的には、トップスターが退団すれば、二番手のスターが昇格する。
対して娘役人事は水物。路線の中で一番いい位置につけていても、ちょっとした理由でトップ娘役に選ばれないこともあるし、上級生の路線娘役がいるにもかかわらす、研2で抜擢されるなんて例もあるくらいだ。彼女たちの明暗を分けるものはいつも不明瞭だ。実力だとも、トップスターが選んだとも、生徒についているスポンサーに気を使ったとも、実家の財力だとも、トップスターと並びが合っているからだとも言われる。
退団者は稽古着や舞台用のアクセサリーやかつらなどを後輩に渡す習慣がある。手伝いをしていた夢園さゆりは、若草色の稽古スカートを深月あやめから受け継いだ。裾の方に太めのフリルレースが二段ついていて、爽やかで品が良い。稽古場で深月あやめが身に着けているなかで、一番好きなスカートだった。
稽古で着用すると、なつかしさと一抹の悲しさを感じた。退団の日の彼女の顔は晴れやかだったし、今は結婚して幸せに暮らしているというのに。思えばこれが夢園さゆりが初めて感じたもやもやだった。
今日のリゼットは、その稽古スカートのようなドレスを着ている。カミーユの工房に丁度若草色の美しい布があったので、それを使ってほしいと強くリクエストした。髪型も、今日は編みこみのお下げにして、毛先を真後ろで交差させ、小花のついたヘアピンでまとめたものだった。深月あやめはすっきりとした髪形を好んでいたので、ちょっと真似してみた。
「今日は王宮の庭園を散策しながら交流を深めるという催しだな。よし、始まったらあの王女を探し出して連れて来い」
おまけでリゼットと揃いに作ってもらった宮廷服を身に着けて、シモンは言った。
「どうして王女様を?」
少しぼうっとしていたリセットが問いかけると、シモンは得意げに懐から小瓶を取り出した。
「これは媚薬だ。王女に飲ませてやる。いくら皇太子妃に内定していても、散策の最中に様子がおかしくなったり、皇太子以外の男ろどうにかなったとしたら、内定は取り消しになるだろう」
「それって、王女様に手を出すってこと? そんなのだめよ、かわいそうだし、それに国際問題に発展しかねないわよ。だいだい媚薬なんてどこで手に入れたの」
隣国から来た可愛らしい王女を罠にはめようなど、この兄はどこまであくどいのだろう。しかも下手をするとトレゾールとリヴェール両王家から睨まれる可能性もある。
「お兄様、馬鹿なことはやめてよ。本当に王女様に手を出したら、捕まってギロチンにかけられるかもしれないわ」
「そんなへまはしない。いずれにせよ王女を排除しないことには勝ち目はないんだ。せっかくここまできたのに、ポッと出の小娘なんかに俺の前途を邪魔されてたまるか」
「だからって、そんな悪いことを……。お兄様はいつも卑怯な方法で人を陥れることばっかり。そうやって私を皇太子妃にして、権力を手に入れて、それで本当にいいの?」
シモンはリゼットの言い分を鼻で笑った。
「では王家の権力で、ここまで頑張ってきたお前たちを蹴散らし、何の努力もなく皇太子妃の座を手にいれるのは卑怯ではないのか? だいたい、幼馴染だとか、親友の推薦があるだとか、最初から不平等な争いだったではないか。純粋な能力で争う公正な競い合いなど、この世には存在しないんだ。権力も、金も、コネもないわたしたちが、卑怯な手を使ったとして、何を非難されることがあるか!」
「そんなこと……」
シモンの考えは全く許されないことだ。だが反論できなかった。
「正攻法では限界が来る。その限界が今なんだ。お前も馬鹿正直に生きるのを改めろ。まったく、血の繋がりはないのに、両親に似ていて困る」
馬車は宮殿に到着した。案内された庭園は、この前の昼食会で見えていた中庭で、花壇や高い生垣が入り組んで、そこここに花が今を盛りと花弁を開いていた。ここを散策しながら歓談して、教養やら立ち居振る舞いやら人となりやらを審査するらしい。
シモンは高いバラの生垣の前でリセットを振り返った。
「王女を見つけたらここへ連れて来い。わかったな」
リゼットが止めるのも聞かず、シモンは去ってしまった。
「どうしよう。でも放っておいたら、お兄様が王女様を捕まえてしまうかも。それじゃあやっぱり王女様を探した方がいいのかしら」
「わたしを探しているの?」
大きな独り言に応えるように、後ろから声が聞こえた。振り返ってみると、生垣の隙間らか、紛れもないキトリィ王女その人が覗いていた。
「わかった、鬼ごっこね。大得意よ!」
リゼットが礼を取る暇も、事情を説明する暇も与えずに、キトリィはぱっと生垣の向こう側に引っ込んで、走り去ってしまった。リゼットは慌ててその姿を追いかけた。
他の生徒たちは眩い衣装をまとったトップスターやトップ娘役、その他路線の男役スターに胸をときめかせていたが、大原悦子が目で追っていたのは、藤組の路線娘役の一人、
美貌と穴のない実力で入団当初から路線娘役として活躍してきた彼女が、大原悦子は好きだった。容姿や歌、芝居、ダンスのどれにも魅了されたが、何より娘役としての確かな技術と、プライドが感じられるところに強く惹かれていた。
可憐に控えめに男役に寄り添えば、どんな男役もより一層輝く。しかし一人で立っても十分に人の目を引き付け、時には男役とも対等に渡り合う。それでも女性が演じる女性として、一貫して華奢で嫋やかだった。もちろん、化粧、衣装の着こなし、かつらやアクセサリーのセンス、スカートさばきなど、どれをとっても完成度が高く、常に美しく舞台に立っていた。
あんな娘役になりたい。
稽古場でも舞台でも慌ただしい場面は沢山あるが、深月あやめはいつも落ち着いていた。まだ右も左もわからない夢園さゆりに手取り足取り指導する時も、声を荒げたり、きつい物言いをすることがなかった。
夢園さゆりにとって彼女は理想だった。実際、多くの下級生や上級生も、娘役の鑑と認めていた。だが彼女はトップ娘役にはなれなかった。トップスターとトップ娘役が同時に退団し、トップ娘役の座が空いたというのに。
理由は、その時彼女が既に研10で、娘役として旬を逃していると思われたこと。時期トップスターが同期で、しかも実年齢は年下だったこと。トップ娘役は男役トップスターよりも下級生で、実年齢も年下でなければならなかった。
結局彼女は、新しいトップスターを迎えて数公演をこなし、研12の時に退団してしまった。退団を告げられ、憧れのスターを惜しむ気持ちと、慕っている先輩がいなくなる不安の狭間に虚しさがあった。美貌、技術、人格、そして娘役力、全てが備わっていても認められないのかと。
男役は路線スターに番手と呼ばれる序列がある。劇団から発表されるわけではないが、パレードの時の羽の大きさとか、ブロマイドの枚数、出版物での扱いなどではっきりとわかる。例外もあるが、基本的には、トップスターが退団すれば、二番手のスターが昇格する。
対して娘役人事は水物。路線の中で一番いい位置につけていても、ちょっとした理由でトップ娘役に選ばれないこともあるし、上級生の路線娘役がいるにもかかわらす、研2で抜擢されるなんて例もあるくらいだ。彼女たちの明暗を分けるものはいつも不明瞭だ。実力だとも、トップスターが選んだとも、生徒についているスポンサーに気を使ったとも、実家の財力だとも、トップスターと並びが合っているからだとも言われる。
退団者は稽古着や舞台用のアクセサリーやかつらなどを後輩に渡す習慣がある。手伝いをしていた夢園さゆりは、若草色の稽古スカートを深月あやめから受け継いだ。裾の方に太めのフリルレースが二段ついていて、爽やかで品が良い。稽古場で深月あやめが身に着けているなかで、一番好きなスカートだった。
稽古で着用すると、なつかしさと一抹の悲しさを感じた。退団の日の彼女の顔は晴れやかだったし、今は結婚して幸せに暮らしているというのに。思えばこれが夢園さゆりが初めて感じたもやもやだった。
今日のリゼットは、その稽古スカートのようなドレスを着ている。カミーユの工房に丁度若草色の美しい布があったので、それを使ってほしいと強くリクエストした。髪型も、今日は編みこみのお下げにして、毛先を真後ろで交差させ、小花のついたヘアピンでまとめたものだった。深月あやめはすっきりとした髪形を好んでいたので、ちょっと真似してみた。
「今日は王宮の庭園を散策しながら交流を深めるという催しだな。よし、始まったらあの王女を探し出して連れて来い」
おまけでリゼットと揃いに作ってもらった宮廷服を身に着けて、シモンは言った。
「どうして王女様を?」
少しぼうっとしていたリセットが問いかけると、シモンは得意げに懐から小瓶を取り出した。
「これは媚薬だ。王女に飲ませてやる。いくら皇太子妃に内定していても、散策の最中に様子がおかしくなったり、皇太子以外の男ろどうにかなったとしたら、内定は取り消しになるだろう」
「それって、王女様に手を出すってこと? そんなのだめよ、かわいそうだし、それに国際問題に発展しかねないわよ。だいだい媚薬なんてどこで手に入れたの」
隣国から来た可愛らしい王女を罠にはめようなど、この兄はどこまであくどいのだろう。しかも下手をするとトレゾールとリヴェール両王家から睨まれる可能性もある。
「お兄様、馬鹿なことはやめてよ。本当に王女様に手を出したら、捕まってギロチンにかけられるかもしれないわ」
「そんなへまはしない。いずれにせよ王女を排除しないことには勝ち目はないんだ。せっかくここまできたのに、ポッと出の小娘なんかに俺の前途を邪魔されてたまるか」
「だからって、そんな悪いことを……。お兄様はいつも卑怯な方法で人を陥れることばっかり。そうやって私を皇太子妃にして、権力を手に入れて、それで本当にいいの?」
シモンはリゼットの言い分を鼻で笑った。
「では王家の権力で、ここまで頑張ってきたお前たちを蹴散らし、何の努力もなく皇太子妃の座を手にいれるのは卑怯ではないのか? だいたい、幼馴染だとか、親友の推薦があるだとか、最初から不平等な争いだったではないか。純粋な能力で争う公正な競い合いなど、この世には存在しないんだ。権力も、金も、コネもないわたしたちが、卑怯な手を使ったとして、何を非難されることがあるか!」
「そんなこと……」
シモンの考えは全く許されないことだ。だが反論できなかった。
「正攻法では限界が来る。その限界が今なんだ。お前も馬鹿正直に生きるのを改めろ。まったく、血の繋がりはないのに、両親に似ていて困る」
馬車は宮殿に到着した。案内された庭園は、この前の昼食会で見えていた中庭で、花壇や高い生垣が入り組んで、そこここに花が今を盛りと花弁を開いていた。ここを散策しながら歓談して、教養やら立ち居振る舞いやら人となりやらを審査するらしい。
シモンは高いバラの生垣の前でリセットを振り返った。
「王女を見つけたらここへ連れて来い。わかったな」
リゼットが止めるのも聞かず、シモンは去ってしまった。
「どうしよう。でも放っておいたら、お兄様が王女様を捕まえてしまうかも。それじゃあやっぱり王女様を探した方がいいのかしら」
「わたしを探しているの?」
大きな独り言に応えるように、後ろから声が聞こえた。振り返ってみると、生垣の隙間らか、紛れもないキトリィ王女その人が覗いていた。
「わかった、鬼ごっこね。大得意よ!」
リゼットが礼を取る暇も、事情を説明する暇も与えずに、キトリィはぱっと生垣の向こう側に引っ込んで、走り去ってしまった。リゼットは慌ててその姿を追いかけた。