第三章 皇太子妃候補たち 第一話
文字数 3,067文字
その日から、リゼットは猛烈に国一番の淑女となるための努力を始めた。
まず、食事の時間以外はシモンの講義を受け、睡眠時間を削っても、読むべき書物を読んだ。文字の書き取りなど、手にペンだこができるくらい、何度も何度も書き連ねた。リヴェール語も、教本に書かれた例文を何度も反復して発音を練習した。
食事は前世と同じように朝食だけにして、勉強の合間にバレエの基礎練習をして体を動かした。その結果、もともと太っていなかったとはいえ、よりすっきりと痩せて、姿勢も美しくなった。
思っていたよりもがむしゃらな努力をするリゼットを見て、シモンもノエルも度々驚いていた。だが、リゼットにとってみれば、何かするときに、効率の良い方法や楽な方法を考えるよりも、まずド根性で真正面から取り組むというのが、当たり前であった。
(この程度、初舞台のロケットの稽古と比べたらなんてことはないわ)
歌舞校を卒業したばかりの新入団員のお披露目であり、通過儀礼でもあるラインダンス——通称ロケット——の稽古で、散々絞られた経験があるから、体力を使わない勉強など、疲れ知らずでやってのけられる。
猛烈に励むリゼットを見て、子爵夫婦はひどく心配したが、全ては自分の興味関心のためであり、シモンに強要されているのではない、と言いとおした。二人は何か察したのか、その後は黙って見守るに徹した。
「まぁ、ここまでできるようになれば、何とかなるだろう」
一カ月余り続けた結果、とりあえずシモンの合格が貰えた。というより、もうこれ以上時間が取れないから、今日までにどうにか形にしなければならなかったのだ。舞台も初日が決まっていてそれまでに稽古を重ねて完成させるものだから、こういうやり方もリゼットにとっては難しいことではなかった。
いよいよ、シモンは両親に妹を皇太子妃選びに参加させると打ち明けた。
「皇太子妃選びは我が国の建国500年を祝う行事の一つ。貴族の端くれとして、何もしないというのは、皇帝陛下に対して不敬です。それに妹にも一度都を見物させてやりたいんです」
家のためと自分の立身出世のためだということは、あくまで伏せた。
「まぁ、そういうことなら」
と、どこか納得していない様子だったが、反対はされなかった。
都までは馬車で17日かかる。途中天候が悪ければ、もっと時間がかかるはずだから、余裕をもって出発しなければならない。慌ただしく荷造りを始める。ノエルはどこから持ってきたのか、衣服をいくつか抱えてリゼットの部屋へやってきた。
「こちらは、奥方様が若い頃お召しになっていたドレスです。夜会用もありますから、これを着て皇太子妃選びに参加なさればよろしいわ」
その他に、ネックレスやイヤリング、腕輪、指輪、羽飾りなどもいくつか持ってきた。一体どこにあったのだろうか。
「もちろん、これも奥方様のお持物とか、先代の奥様が残した物ですわ。倉庫の中に眠っていた物を集めてきました。まだ少し余っていましたから、借金取りが来ても、何とか凌げると思いますわ」
どれも古ぼけてはいたが、二人で布切れで磨くと輝きを取り戻した。
「これがあれば、何とか格好はつきそうね。ノエルありがとう」
「お嬢様、言葉づかいにお気を付け下さい」
「ねぇ、あなたやお兄様だけしかいない時は、これくらい許してくれない? ずっと気を付けているのは肩が凝っちゃう。それに、やるべきときはちゃんとできているでしょう」
「わかりました。ここまで頑張ったご褒美です。それは許します」
持って行く荷物を大きなトランク三つに分けて馬車に積み込んだ。シモンもそれなりに荷物があるし、ノエルも鞄一つは持っていくので、馬車の中の座席は狭くなってしまったが、仕方がない。
「二人とも、道中気を付けるのよ。変なものは食べないように。水は必ず沸かした物を飲みなさい。ノエル、二人の事を頼んだわよ」
「ありがとうお母様。お父様も心配なさらないで。それでは行ってきます」
屋敷の前で見送る家族に手を振って、馬車は出発した。
「都へ行って、泊まる宛てがあるの?」
「ノエルの兄が仕立屋をしているから、その店に間借りする」
兄弟のよしみで宿代は取られないらしい。ただし、都へ着くまでの間は宿に泊まらなくてはいけない。シモンの手持ちはそれほど多くない。そのため道中では宿に泊まるのは御者だけとして、シモンたち三人は狭い馬車の中で夜を明かすこととなった。
車中泊も最初の数日は目新しくて楽しいものだったが、毎日となるとさすがに堪える。おまけにリゼットは長距離の馬車に慣れておらず、馬車酔いがひどかった。仕方がないので、途中休憩を挟みながら進むと、予想以上に時間がかかってしまった。
計算上ではあと二日で都に到着する。しかし皇太子妃選びの候補者の最初の集まりは、三日後だった。ここにきて、シモンは焦り出した。
「お前がゲロゲロやっていたから、間に合わないかもしれないじゃないか」
「しょうがないじゃない。大体、この馬車がおんぼろで揺れがすごいからでしょう」
計算上ではあと二日で都に到着する。しかし皇太子妃選びの候補者の最初の集まりは三日後だった。焦ったシモンがリゼットに突っかかって軽く喧嘩をしたが、天候にも恵まれ、何とか集まりの一日前の夕方に都へ到着した。
クルベットノンよりも大きな建物が並び、石畳が敷かれた町中を馬車はゆっくりと進む。
「この道を右に曲がった突き当りが、兄の店です」
ノエルの道案内通りに進んだ馬車は、針と糸の看板の下がった二階建ての建物の前で止まった。
店に入ると、ノエルの兄が奥から出てきた。少し黄ばんだシャツに灰色のベストを着たいでたちは、いかにも職人といった風だったが、明るい気さくな表情で、リゼットは少し緊張が解けた。
「ようこそ若旦那様とお嬢様。俺はノエルの兄、カミーユです。どうぞこちらへ、ここが余っている部屋です」
と、二階に物置に通された。布や造りかけの衣服、裁縫道具が散乱していて、おまけに埃っぽかったが、三人で掃除して、なんとか滞在できる部屋らしくした。
「休んでいる暇はない。明日着てゆく服を準備するんだ」
シモンの指示で運び込んだばかりの荷物から、子爵夫人の昔のドレスを引っ張り出す。明日は昼間の集まりであるから、輪っかのパニエは入れないタイプのドレスだ。サーモンピンクで、袖はボリュームたっぷりに膨らみ、肩や胸が白い繊細なレースで飾られている。もう少し恋ピンク色のリボンがドレスの上で優雅なドレープを作っている。とても美しいドレスだと思ったのだが、カミーユはそのドレスを見て、気まずそうに笑った。
「これは何十年前のドレスです? 余りにも流行遅れですよ」
そういって、彼が最近仕立てたドレスのデザイン画を持ってきてくれた。
「最近は、袖にボリュームがあまりなく、地紋の入った布とか、細かい柄の布を使って、レースもフリルたっぷりではなく、模様が美しいものを布に重ねる感じです。大ぶりのドレープは野暮ったいです」
三人は真っ青になった。
「どうしよう。これを着ていったらいい笑い者だわ」
「ノエル、お前は都にいたのに流行がわからなかったのか」
「あのお屋敷に流行のドレスなんてなかったので。取り合えず持ってきたんです。兄さん、造ったドレスを貸してくれない?」
「俺を当てにしてたのか? 無理だ。どれも注文品だからな」
シモンもノエルも困惑した。リゼットも一度はソファに沈むように座り込んだ。が、気力を振り絞って立ち上がった。
「何とかするしかないわ」
まず、食事の時間以外はシモンの講義を受け、睡眠時間を削っても、読むべき書物を読んだ。文字の書き取りなど、手にペンだこができるくらい、何度も何度も書き連ねた。リヴェール語も、教本に書かれた例文を何度も反復して発音を練習した。
食事は前世と同じように朝食だけにして、勉強の合間にバレエの基礎練習をして体を動かした。その結果、もともと太っていなかったとはいえ、よりすっきりと痩せて、姿勢も美しくなった。
思っていたよりもがむしゃらな努力をするリゼットを見て、シモンもノエルも度々驚いていた。だが、リゼットにとってみれば、何かするときに、効率の良い方法や楽な方法を考えるよりも、まずド根性で真正面から取り組むというのが、当たり前であった。
(この程度、初舞台のロケットの稽古と比べたらなんてことはないわ)
歌舞校を卒業したばかりの新入団員のお披露目であり、通過儀礼でもあるラインダンス——通称ロケット——の稽古で、散々絞られた経験があるから、体力を使わない勉強など、疲れ知らずでやってのけられる。
猛烈に励むリゼットを見て、子爵夫婦はひどく心配したが、全ては自分の興味関心のためであり、シモンに強要されているのではない、と言いとおした。二人は何か察したのか、その後は黙って見守るに徹した。
「まぁ、ここまでできるようになれば、何とかなるだろう」
一カ月余り続けた結果、とりあえずシモンの合格が貰えた。というより、もうこれ以上時間が取れないから、今日までにどうにか形にしなければならなかったのだ。舞台も初日が決まっていてそれまでに稽古を重ねて完成させるものだから、こういうやり方もリゼットにとっては難しいことではなかった。
いよいよ、シモンは両親に妹を皇太子妃選びに参加させると打ち明けた。
「皇太子妃選びは我が国の建国500年を祝う行事の一つ。貴族の端くれとして、何もしないというのは、皇帝陛下に対して不敬です。それに妹にも一度都を見物させてやりたいんです」
家のためと自分の立身出世のためだということは、あくまで伏せた。
「まぁ、そういうことなら」
と、どこか納得していない様子だったが、反対はされなかった。
都までは馬車で17日かかる。途中天候が悪ければ、もっと時間がかかるはずだから、余裕をもって出発しなければならない。慌ただしく荷造りを始める。ノエルはどこから持ってきたのか、衣服をいくつか抱えてリゼットの部屋へやってきた。
「こちらは、奥方様が若い頃お召しになっていたドレスです。夜会用もありますから、これを着て皇太子妃選びに参加なさればよろしいわ」
その他に、ネックレスやイヤリング、腕輪、指輪、羽飾りなどもいくつか持ってきた。一体どこにあったのだろうか。
「もちろん、これも奥方様のお持物とか、先代の奥様が残した物ですわ。倉庫の中に眠っていた物を集めてきました。まだ少し余っていましたから、借金取りが来ても、何とか凌げると思いますわ」
どれも古ぼけてはいたが、二人で布切れで磨くと輝きを取り戻した。
「これがあれば、何とか格好はつきそうね。ノエルありがとう」
「お嬢様、言葉づかいにお気を付け下さい」
「ねぇ、あなたやお兄様だけしかいない時は、これくらい許してくれない? ずっと気を付けているのは肩が凝っちゃう。それに、やるべきときはちゃんとできているでしょう」
「わかりました。ここまで頑張ったご褒美です。それは許します」
持って行く荷物を大きなトランク三つに分けて馬車に積み込んだ。シモンもそれなりに荷物があるし、ノエルも鞄一つは持っていくので、馬車の中の座席は狭くなってしまったが、仕方がない。
「二人とも、道中気を付けるのよ。変なものは食べないように。水は必ず沸かした物を飲みなさい。ノエル、二人の事を頼んだわよ」
「ありがとうお母様。お父様も心配なさらないで。それでは行ってきます」
屋敷の前で見送る家族に手を振って、馬車は出発した。
「都へ行って、泊まる宛てがあるの?」
「ノエルの兄が仕立屋をしているから、その店に間借りする」
兄弟のよしみで宿代は取られないらしい。ただし、都へ着くまでの間は宿に泊まらなくてはいけない。シモンの手持ちはそれほど多くない。そのため道中では宿に泊まるのは御者だけとして、シモンたち三人は狭い馬車の中で夜を明かすこととなった。
車中泊も最初の数日は目新しくて楽しいものだったが、毎日となるとさすがに堪える。おまけにリゼットは長距離の馬車に慣れておらず、馬車酔いがひどかった。仕方がないので、途中休憩を挟みながら進むと、予想以上に時間がかかってしまった。
計算上ではあと二日で都に到着する。しかし皇太子妃選びの候補者の最初の集まりは、三日後だった。ここにきて、シモンは焦り出した。
「お前がゲロゲロやっていたから、間に合わないかもしれないじゃないか」
「しょうがないじゃない。大体、この馬車がおんぼろで揺れがすごいからでしょう」
計算上ではあと二日で都に到着する。しかし皇太子妃選びの候補者の最初の集まりは三日後だった。焦ったシモンがリゼットに突っかかって軽く喧嘩をしたが、天候にも恵まれ、何とか集まりの一日前の夕方に都へ到着した。
クルベットノンよりも大きな建物が並び、石畳が敷かれた町中を馬車はゆっくりと進む。
「この道を右に曲がった突き当りが、兄の店です」
ノエルの道案内通りに進んだ馬車は、針と糸の看板の下がった二階建ての建物の前で止まった。
店に入ると、ノエルの兄が奥から出てきた。少し黄ばんだシャツに灰色のベストを着たいでたちは、いかにも職人といった風だったが、明るい気さくな表情で、リゼットは少し緊張が解けた。
「ようこそ若旦那様とお嬢様。俺はノエルの兄、カミーユです。どうぞこちらへ、ここが余っている部屋です」
と、二階に物置に通された。布や造りかけの衣服、裁縫道具が散乱していて、おまけに埃っぽかったが、三人で掃除して、なんとか滞在できる部屋らしくした。
「休んでいる暇はない。明日着てゆく服を準備するんだ」
シモンの指示で運び込んだばかりの荷物から、子爵夫人の昔のドレスを引っ張り出す。明日は昼間の集まりであるから、輪っかのパニエは入れないタイプのドレスだ。サーモンピンクで、袖はボリュームたっぷりに膨らみ、肩や胸が白い繊細なレースで飾られている。もう少し恋ピンク色のリボンがドレスの上で優雅なドレープを作っている。とても美しいドレスだと思ったのだが、カミーユはそのドレスを見て、気まずそうに笑った。
「これは何十年前のドレスです? 余りにも流行遅れですよ」
そういって、彼が最近仕立てたドレスのデザイン画を持ってきてくれた。
「最近は、袖にボリュームがあまりなく、地紋の入った布とか、細かい柄の布を使って、レースもフリルたっぷりではなく、模様が美しいものを布に重ねる感じです。大ぶりのドレープは野暮ったいです」
三人は真っ青になった。
「どうしよう。これを着ていったらいい笑い者だわ」
「ノエル、お前は都にいたのに流行がわからなかったのか」
「あのお屋敷に流行のドレスなんてなかったので。取り合えず持ってきたんです。兄さん、造ったドレスを貸してくれない?」
「俺を当てにしてたのか? 無理だ。どれも注文品だからな」
シモンもノエルも困惑した。リゼットも一度はソファに沈むように座り込んだ。が、気力を振り絞って立ち上がった。
「何とかするしかないわ」