第五章 仮面舞踏会 第九話
文字数 3,000文字
(少し休んでから再挑戦しよう)
新鮮な空気を吸いに外に出る。室内の熱気が嘘のように、爽やかな風が心地よく吹き付ける。外に出てもしばらく大理石のタイルを施した床が伸びていて、その先に噴水や生垣が配された庭がある。
どこかに腰掛けたくて、室内の灯りがうっすら届く噴水に近づくと、誰かが噴水の淵に座っていた。その仮面には見覚えがあった。
「あ、ユーグさんではなくて?」
声をかけてしまってから、リゼットは慌てて口を押える。
「ごめんなさい。正体を言ってはいけないのよね。でも、仮面を見たらわかってしまって」
ユーグは黙っている。リゼット少し距離を開けて隣に腰掛けた。
「その仮面どうかしら。いえね、仕立屋が気にしていたから。やっぱりあなたには可愛いの似合うと思ってデザインしたのよ……仕立屋がね。あなたはかっこいいのが好きみたいだけど、可愛い男性も魅力的だと思うわよ。フェアリータイプっていうか……とにかく、せっかく自分に備わった魅力を否定するのは良くないわ。むしろ自分の魅力を理解して、より良く見せるのが、真のかっこよさなんじゃないかしら。
まだ皇太子殿下にはお見せしていないわよね。終わったらぜひお見せして、お褒めいただけたら、あの店の評判も上がるから」
宝川歌劇の世界では、中性的な舞台姿の男役をフェアリータイプと呼ぶ。
可愛いのが似合うなどと言われても、ユーグはまったく反応しなかった。そのはずだ。彼はユーグが作った仮面をかぶったルシアンなのだから。
(ユーグの知り合いか? カスミソウが仮面に挿してあるから、皇太子妃候補の令嬢だろうが。馴れ馴れしいしフェアリー何とかとか、訳の分からないことを言ってる。話を合わせないと怪しまれるか?)
計画通り、ひっそりと令嬢たちの様子を観察していたが、仮面をつけたゆえに、いつもより積極的になっている彼女たちになんとなく辟易し、また直前で仮面を変えた時のセブランの様子も気になって、一度落ち着くために会場を出てきたのだった。だというのに、なんだか厄介な人に捕まってしまった。
「殿下の仮面は素晴らしかったわよね。サルタンの仮面って何のことかわからなかったのだけれど、イスラムの王様みたいなってことね。エキゾチックな感じで宝石も豪華で。ああいう仮面が主流だと、わたくしたちのはやっぱり変に見えるかしら。
でも殿下は褒めてくださると思うわ。だって真面目で、物ごとにまっすぐに向き合う方のようだから。この前劇場でね、わたくし演出の工夫について殿下に申し上げたの。普通はそういう観方はしないし、情緒がない、無粋だって批判されてもおかしくなかったけれど、殿下はそういう視点も面白い、むしろ芸術には必要な要素だって、否定せずに受け取ってくださったのよ。アンリエット様のことだって、散策の時自ら過去にけりをつけにいらしたでしょう。そういう方だから、きっと仮面についても、はなからへんてこだなんて否定することなく、受け入れてくださるんじゃないかしら」
劇場の出来事とアンリエットと密会の話が出たので、ルシアンは彼女がリゼットであるとわかった。
(ユーグはリゼット嬢と仲良くなっているのか。最初は裏があるのではと警戒していたのに。それにしても……)
「そう見えますか」
「え?」
「こ、皇太子殿下は、あなたには、そう見えているのですか」
話しかけてもだんまりなので、一体どうしたのかと思っていたリゼットだったが、ようやく反応が返ってきて安心した。風邪でもひいたようで、声がずいぶんしゃがれていたが。
「そうね。生真面目で、品行方正で、皇太子というお立場に相応しいお人柄だと思うわ。でも真面目が過ぎて、少し抜けているようなところがあるわよね。散策で勘違いして、皇太子妃は自らの遺志で選びますって宣言なさったときの、あの恥ずかしそうなお顔とか」
「あ、あれは誰しも同じ勘違いをしていたのではないか」
「ええ、わたくしも。でも、最初は皇太子殿下は雲の上の人って感じていたのよ。もちろん身分の上からいったら、今も雲の上の人だけれど。容姿も相まって、住む世界が違うというか、わたくしごときが話しかけたりできない存在という印象ね。でもああやってわたくしたちと同じ勘違いをして、顔を赤くしていらっしゃるのはとても人間的で、お話ししたり、ダンスを踊ったりしても大丈夫なのだと思えたわ」
「近寄りがたかったと」
「まぁ、高貴なお立場なのだから、当然だけれどね」
リゼットが笑っていたが、ルシアンは己がそう思われていたと聞いて複雑だった。確かに品位を保つために他人に馴れ馴れしくしないよう心掛けていたし、特に令嬢たちに対しては、妃選びが始まる前から、いらぬ期待を抱かせて社交界を騒がせるのは良くないと、意識して遠ざけていたところもある。だが、冷たく見えるのはあまりいいことではない。散策でそれを払しょくできたというなら、それはそれでよかったかもしれないが。
「それにしても、私たちと同じような人間だと思えば尚更、自分を律して真面目にお過ごしなのは、とても立派だわ。わたくしなんて、目の前に解決すべき問題があっても、自分の中に言いたい事があっても、目を背けてしまうんだもの、変に思われたくないとか、揉めたくないとか、巻き込まれたくないとか思ってしまって。
実は、都へ来てからちょっとした事件に遭遇したの。詳しくは言えないんだけど、ある人に濡れ衣がかかってしまって。そういう時、普通は真犯人を探して真実を明らかにしようとするわよね。でもわたくしは、全ては偶然だったっていう誤魔化しをしたの。その人を助けたいと必死だったのだけれど、今となってはもっとやりようがあったのではないかって、少し後悔しているわ。そうやって問題から逃げてしまうくらい弱いのよ、きっと」
前世でも、できることがあるのに、余計なお世話になると言い訳して、何もせずに傍観することが多々あった。それで自己嫌悪を起こしても、結局また同じ事を繰り返す。
「弱くはない、と思う。全てを詳らかにすることが正しいとは限らないから。それに、その、皇太子殿下も、それほど強いわけではない」
ルシアンはリゼットの言葉にとても共感した。友情が壊れる恐ろしさや、互いの立場ゆえの枷を目の当たりにすることが怖くて、セブランへの疑惑を追求しなかった己と通じるものがあったからだ。
「そう? でも殿下なら悩んでも最後はやっぱり真摯に向き合って、良い方へむかってゆけると思うわ。なんて、わかったような口を利いているけど、殿下のことはあなたのほうがよくわかっているわよね。お側に仕えているんだから」
「まぁ、それはそうかもしれない……」
リゼットはユーグに話しているつもりでいる。だからこそこれは自らへの忌憚のない言葉だ。そう感じたルシアンの心に、リゼットの言葉は驚くほどまっすぐ届いた。
「……さて、お喋りしすぎたかしら。そろそろ戻らないと。皇太子殿下と少しでも話しできればいいんだれど」
リゼットが腰を上げた。ルシアンは思わず手を引いてそれを止めた。自分の正体が隠せているのは狙いどおりなのだが、この毒気のない令嬢を騙すのは、どうにも気が引けた。
「あら、もしかして体調が悪いの? その声、風邪をひているみたいだし。でも薬持っていないしな……」
具合の悪い人を放ってはおけないと、リゼット庭にとどまった。
新鮮な空気を吸いに外に出る。室内の熱気が嘘のように、爽やかな風が心地よく吹き付ける。外に出てもしばらく大理石のタイルを施した床が伸びていて、その先に噴水や生垣が配された庭がある。
どこかに腰掛けたくて、室内の灯りがうっすら届く噴水に近づくと、誰かが噴水の淵に座っていた。その仮面には見覚えがあった。
「あ、ユーグさんではなくて?」
声をかけてしまってから、リゼットは慌てて口を押える。
「ごめんなさい。正体を言ってはいけないのよね。でも、仮面を見たらわかってしまって」
ユーグは黙っている。リゼット少し距離を開けて隣に腰掛けた。
「その仮面どうかしら。いえね、仕立屋が気にしていたから。やっぱりあなたには可愛いの似合うと思ってデザインしたのよ……仕立屋がね。あなたはかっこいいのが好きみたいだけど、可愛い男性も魅力的だと思うわよ。フェアリータイプっていうか……とにかく、せっかく自分に備わった魅力を否定するのは良くないわ。むしろ自分の魅力を理解して、より良く見せるのが、真のかっこよさなんじゃないかしら。
まだ皇太子殿下にはお見せしていないわよね。終わったらぜひお見せして、お褒めいただけたら、あの店の評判も上がるから」
宝川歌劇の世界では、中性的な舞台姿の男役をフェアリータイプと呼ぶ。
可愛いのが似合うなどと言われても、ユーグはまったく反応しなかった。そのはずだ。彼はユーグが作った仮面をかぶったルシアンなのだから。
(ユーグの知り合いか? カスミソウが仮面に挿してあるから、皇太子妃候補の令嬢だろうが。馴れ馴れしいしフェアリー何とかとか、訳の分からないことを言ってる。話を合わせないと怪しまれるか?)
計画通り、ひっそりと令嬢たちの様子を観察していたが、仮面をつけたゆえに、いつもより積極的になっている彼女たちになんとなく辟易し、また直前で仮面を変えた時のセブランの様子も気になって、一度落ち着くために会場を出てきたのだった。だというのに、なんだか厄介な人に捕まってしまった。
「殿下の仮面は素晴らしかったわよね。サルタンの仮面って何のことかわからなかったのだけれど、イスラムの王様みたいなってことね。エキゾチックな感じで宝石も豪華で。ああいう仮面が主流だと、わたくしたちのはやっぱり変に見えるかしら。
でも殿下は褒めてくださると思うわ。だって真面目で、物ごとにまっすぐに向き合う方のようだから。この前劇場でね、わたくし演出の工夫について殿下に申し上げたの。普通はそういう観方はしないし、情緒がない、無粋だって批判されてもおかしくなかったけれど、殿下はそういう視点も面白い、むしろ芸術には必要な要素だって、否定せずに受け取ってくださったのよ。アンリエット様のことだって、散策の時自ら過去にけりをつけにいらしたでしょう。そういう方だから、きっと仮面についても、はなからへんてこだなんて否定することなく、受け入れてくださるんじゃないかしら」
劇場の出来事とアンリエットと密会の話が出たので、ルシアンは彼女がリゼットであるとわかった。
(ユーグはリゼット嬢と仲良くなっているのか。最初は裏があるのではと警戒していたのに。それにしても……)
「そう見えますか」
「え?」
「こ、皇太子殿下は、あなたには、そう見えているのですか」
話しかけてもだんまりなので、一体どうしたのかと思っていたリゼットだったが、ようやく反応が返ってきて安心した。風邪でもひいたようで、声がずいぶんしゃがれていたが。
「そうね。生真面目で、品行方正で、皇太子というお立場に相応しいお人柄だと思うわ。でも真面目が過ぎて、少し抜けているようなところがあるわよね。散策で勘違いして、皇太子妃は自らの遺志で選びますって宣言なさったときの、あの恥ずかしそうなお顔とか」
「あ、あれは誰しも同じ勘違いをしていたのではないか」
「ええ、わたくしも。でも、最初は皇太子殿下は雲の上の人って感じていたのよ。もちろん身分の上からいったら、今も雲の上の人だけれど。容姿も相まって、住む世界が違うというか、わたくしごときが話しかけたりできない存在という印象ね。でもああやってわたくしたちと同じ勘違いをして、顔を赤くしていらっしゃるのはとても人間的で、お話ししたり、ダンスを踊ったりしても大丈夫なのだと思えたわ」
「近寄りがたかったと」
「まぁ、高貴なお立場なのだから、当然だけれどね」
リゼットが笑っていたが、ルシアンは己がそう思われていたと聞いて複雑だった。確かに品位を保つために他人に馴れ馴れしくしないよう心掛けていたし、特に令嬢たちに対しては、妃選びが始まる前から、いらぬ期待を抱かせて社交界を騒がせるのは良くないと、意識して遠ざけていたところもある。だが、冷たく見えるのはあまりいいことではない。散策でそれを払しょくできたというなら、それはそれでよかったかもしれないが。
「それにしても、私たちと同じような人間だと思えば尚更、自分を律して真面目にお過ごしなのは、とても立派だわ。わたくしなんて、目の前に解決すべき問題があっても、自分の中に言いたい事があっても、目を背けてしまうんだもの、変に思われたくないとか、揉めたくないとか、巻き込まれたくないとか思ってしまって。
実は、都へ来てからちょっとした事件に遭遇したの。詳しくは言えないんだけど、ある人に濡れ衣がかかってしまって。そういう時、普通は真犯人を探して真実を明らかにしようとするわよね。でもわたくしは、全ては偶然だったっていう誤魔化しをしたの。その人を助けたいと必死だったのだけれど、今となってはもっとやりようがあったのではないかって、少し後悔しているわ。そうやって問題から逃げてしまうくらい弱いのよ、きっと」
前世でも、できることがあるのに、余計なお世話になると言い訳して、何もせずに傍観することが多々あった。それで自己嫌悪を起こしても、結局また同じ事を繰り返す。
「弱くはない、と思う。全てを詳らかにすることが正しいとは限らないから。それに、その、皇太子殿下も、それほど強いわけではない」
ルシアンはリゼットの言葉にとても共感した。友情が壊れる恐ろしさや、互いの立場ゆえの枷を目の当たりにすることが怖くて、セブランへの疑惑を追求しなかった己と通じるものがあったからだ。
「そう? でも殿下なら悩んでも最後はやっぱり真摯に向き合って、良い方へむかってゆけると思うわ。なんて、わかったような口を利いているけど、殿下のことはあなたのほうがよくわかっているわよね。お側に仕えているんだから」
「まぁ、それはそうかもしれない……」
リゼットはユーグに話しているつもりでいる。だからこそこれは自らへの忌憚のない言葉だ。そう感じたルシアンの心に、リゼットの言葉は驚くほどまっすぐ届いた。
「……さて、お喋りしすぎたかしら。そろそろ戻らないと。皇太子殿下と少しでも話しできればいいんだれど」
リゼットが腰を上げた。ルシアンは思わず手を引いてそれを止めた。自分の正体が隠せているのは狙いどおりなのだが、この毒気のない令嬢を騙すのは、どうにも気が引けた。
「あら、もしかして体調が悪いの? その声、風邪をひているみたいだし。でも薬持っていないしな……」
具合の悪い人を放ってはおけないと、リゼット庭にとどまった。