第8章 -  3  1980年 五月三日 土曜日(5)

文字数 1,464文字

 3  1980年 五月三日 土曜日(5)



 ――以前ここに、天野由美子という女性が勤めていなかったか?
 そんな問いに、そう簡単には答えてはくれない。そのくらいの予想は付いていたから、達哉にしては珍しいくらいに考えたのだ。
 そうして出した結論は、何より効果がありそうに思え、唯一の心配事はたった一つ。
 ――院長が変わってしまっていたら、どうしよう?
 ところがそんな心配は杞憂に終わる。
 達哉は驚くくらい丁寧な感じで、院長室まで案内された。そして……、
 ――二十三年前に起きた誘拐事件について聞きたいことがある。
 ――自分は藤木達哉と言って、父親の名前は藤木達郎という勤務医だった。
 そう告げた時、受付の態度は予想通りのものだった。
 ところが内線電話を手に取って、しばらくすると態度が一気に変化する。結果、知りたかったこと以上の事実を手に入れ、いよいよ院長室を去ろうとしかけた時だった。
「どうして天野くん、いや、どうして、天野由美子さんのことなのか? その理由を、お聞かせ頂くわけにはいきませんか?」
 ――今さら犯人探しをしているわけじゃない。
 ――だから理由を聞かずに教えて欲しい。
 そうは告げていても、やはり気にはなるのだろう。年老いた院長はそう声にして、すがるような顔を達哉に向けた。
 そんな顔から視線を外し、
「すでに、天野由美子さんはお亡くなりになっていますし、わたしがお聞きした内容については、すぐにでも、お忘れになってください」
 窓から覗く、遠くの景色に目をやりながら、失礼にならないよう気を付けながら達哉はそう声にした。
 そうして結果、真実に繋がりそうな新たな事実も確認できて、今日という日を迎えることになったのだった。
 ――血液型って変わっちゃう。
 実際に、生まれた赤ん坊がそうだったのかは可能性だが、少なくともこっちの方はそうじゃなかった。院長から聞いた話は真実だろうし、それを知った翔太のショックは計り知れない。
 その日から顔面神経痛に悩まされ、彼は今も千尋の隣で、片側の目の辺りへしょっちゅう指先を当てている。
 ところが達哉がそんな事実をすっ飛ばし、千尋が我慢できずに血液型のことを口にしてしまった。
 そうしていよいよ! という時に、翔太がいきなり告げたのだった。
「すみません! そうなんです! 本当は分からないんです! なのに、いきなり変な話になっちゃって、すみません!」
 苦悶の表情を見せるまさみに向けて、彼はそう声にしてからストンと頭を下げるのだ。
 それから達哉と千尋へ苦々しい顔を向け、「さあ、帰ろう!」というジェスチャーを見せた。
 もちろん二人は動こうとはしない。
 千尋は達哉の顔をジッと見つめ、そんな視線から逃れるように、達哉はまさみの姿に視線を送る。そうして大きく息を吸い、再び静かに声にした。
「彼のお母さんはね、昭和三十五年に、看護婦という仕事を退職するまで、ずっと無遅刻無欠勤。それも、あの病院に勤め始めてから十五年間、お休みの日以外、一度だって休んでないんだ……」
 そこで一回、少しだけ間を開けて、小さな深呼吸をしてみせる。
「でもさ、おかしいんだよ。天野さんが生まれたのは昭和三十二年。だからさ、その前後には、絶対に休みは取るはずだろう? だって赤ん坊を産むだもん。だから俺、おかもと産婦人科に行って来たんだ。そうしたら、そこの院長がぜんぶ教えてくれた。そりゃそうだよな……生まれたばかりの赤ちゃんが、それも自分の病院でさ、誘拐された日のことなんて、忘れたくったって、忘れられないよな……」
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