第7章 -  1 翔太の決心(2)

文字数 2,312文字

 1 翔太の決心(2)



「ふー」
 あえて大きな声を出し、思いっきり息を吐き出した。
 辺りはかなり冷え込んでいて、真っ白い息が視線の先まではっきり見える。
 すでにほろ酔い気分も完全に覚め、それでも彼は公園のベンチから離れようとはしなかった。
 千尋から久しぶりに集まろうと誘われ、達哉はついさっきまで大山にいた。そして箱根旅行の話で盛り上がり、そろそろお開きかという頃だった。
 いきなり翔太が告げて来たのだ。
「実は、昨日で、ここのバイトはお終いなんだ。来週からは、昼は管理人兼ガードマンで、夜はひたすら勉強ってことになりましたんで、よろしく!」
「え? 勉強って? なんでよ?」
「実はさ、来年、大学の夜間を受験しようかって思ってて……」
「それで天野さん、アパートも引っ越しちゃうんだよ。住み込みでさ、社宅の管理人をやるんだって、それで空いた時間は猛勉強するって、もうさ、驚いちゃうでしょ?」
 目を丸くしている達哉に向けて、千尋がそんな言葉でさらに驚かせようとする。
 五時過ぎに集まって、すでに八時を回ろうとしていた。
「そんな大事な話、どうしてここまで引っ張るんだよ! もっと早く、教えてくれればいいじゃないか!?」
「そうなんだけど、天野さんがさ、自分で言うまで黙ってろって言うんだもの……」
「いい歳して、大学受けるなんて〝アレ〟だしさ、ま、とにかく、引っ越すったって、たったひと駅隣ってだけだから……これからも、変わらぬお付き合いよろしくってね、そんな感じで……」
 せっかく生まれたからには、世のため、人のためになる仕事に就きたい。
 そのためには、やっぱり大学くらいは出ておくべきと、箱根旅行から帰ってすぐに思ったらしい。
「藤木くんのお父さんの話を聞いててさ、ああ、凄いなあって思っちゃって、俺も、何かやらなきゃなあってね、思ったってわけよ……」
「でもさ、そんな生活をずっと続けて来たから、とうとう病気なんかになっちゃったんじゃないかな……」
 翔太から少しだけ視線をずらし、達哉はそんなことをポツリと返した。
 すると一気に顔付きを変え、翔太が身を乗り出した。
「あ、そうだよ、お父さんの具合、その後はどうなの?」
 一度、見舞いに行きたいと思っていたと、心配そうな顔を達哉に向けた。
 だからここで初めて、達郎の病気について本当のことを二人に告げる。
 胃潰瘍だったと話していたのは実は大嘘。
 本当は胃癌……それも末期の状態で、
「もう、手術もできないって言われてる。早ければ、数ヶ月の命だってさ……」
 そう告げてから、千尋と翔太はほぼほぼ何も喋らなかった。
 ただ唯一、達哉が告げたひと言に、千尋がなんとか言葉を返す。
「うちの親父、昔っから、胃が弱かったらしくてさ……」
「そう、なんだ……」
 そう呟いてから、ゆっくり視線を翔太に向けて、
「じゃ、天野さんも、気を付けないとね……」
 と、やはりボソッと小さく言った。
 それから割り勘で会計を済まして別れ際、翔太が静かに聞いたのだった。
「あのさ、俺が見舞いに行きたいって……行ってもいいかって、親父さんに聞いてみてくれないか?」
「あ、それならわたしも、わたしも一緒に行きたい」
「うん、わかった。聞いておくよ……」
 そんな会話を最後に、達哉は小さく手を振った。
 そこから駅に向かって歩き出すが、どうにも電車に乗る気にならなかった。
 明るい場所に出て行く気になれず、彼は駅を横目に見ながら通り過ぎる。それから暗い夜道を歩き続けて、ふと目についた小さな公園に立ち寄った。
 ベンチに腰掛け、夜空を見上げていろいろ思う。
 施設で育った天野翔太が大学受験を心に決める。社宅の管理人をしながら受験勉強に集中すると、彼はサラッと口にした。
 ――人のためになる仕事がしたい……? いったいそれって、どんなだよ?
 達哉はこの世界に戻ってからも、そんなことなど微塵も思ってこなかった。
 ――俺はいったい、これから何をしたいんだ?
 翔太の決意に心が〝ざわつき〟、次から次へと疑問ばかりが頭に浮かぶ。
 しかし一向に答えは出ずで、疑問すべてを心の奥に追いやった。それからやっと立ち上がり、彼は家に向かって歩き出すのだ。
 そうして帰宅した途端、まるで待ち構えていたようだった。
 ――え? なんで? どうしてよ……?
 なんて素直に思ったが、不審に思いながらも頷いたのだ。
 明日、病院に行って、お父さんにこの本を渡して欲しい。そう言いながら、一冊の本を差し出した。
 ――え? お袋は行かないの?
 そう聞こうと思った途端、まさみが続けて言ってくる。
「ごめんなさいね、明日はどうしても、夕方まで外せない用事があって……」
「へえ、そうなんだ。了解。明日、大学の帰りに寄ってくるから」
「お願いします。お父さん、早く読みたいだろうし……」
 そう言って、まさみが両手を合わせて拝むような仕草を見せた。
 差し出された本を手に取って、彼はそのまま二階に上がった。自分の部屋に入ってすぐに、立ったまま、手にある本をジッと見る。
 ――戦後事件史
 そこそこに分厚い書籍で、どうやら戦後日本で起こった大事件について、事細かに解説しているものらしい。
 ――親父がこんな本を、急いで読みたいってか?
 ミステリー小説の続きだっていうなら理解できる。さらに言えば、旅行から帰って来てから、まさみは一日たりとも欠かさず達郎の元へ出向いているのだ。
 ――ま、よっぽど大事な用事なんだな……。
 なんてことを思って、彼は本をバックの中に仕舞い込んだ。
 そして次の日、午前中だけ講義を受けて、病室へ向かった彼を待ち受けていたのは、まるで想像していなかった衝撃的な過去だった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み