第1章 -  5 天野翔太(藤木達哉)(5)

文字数 1,756文字

 5 天野翔太(藤木達哉)(5)
 


 アパートのすぐそばに、ここ数年で大きな施設ができたのだった。
 そこは特別養護老人ホームで、彼女はそこに勤める介護職員。老人の乗る車椅子を押して、施設の近所を散歩している姿を何度も見かけた。
 女性はいつも優しい笑顔で、老人に向かって何やら話しかけている。
 たったそれだけのことだった。なのに妙に気になって、ネームプレートにある名前を頭にしっかり刻み込んだ。
 そうしてある早朝のこと、なんと彼女が子犬を連れて姿を見せる。もちろん相手は彼のことなど知りはしないから、彼の座るベンチの前をさっさと通り過ぎてしまうのだ。
 本当ならば、声など掛けずに終わってしまう筈だった。
 ところが運がいいのか悪いのか、大型犬の登場によって状況は大きく変化する。
 女性がその存在に気が付く前に、子犬がいきなり全速力で走り出した。彼女の手からリードがすり抜け、子犬は大型犬に向かって一直線だ。
 一方大型犬の飼い主の方は、百キロ近くはありそうな巨漢の男。
 子犬は大型犬から数メートルのところまでやって来て、キャンキャンと吠えるばかりでそれ以上は近付こうとしない。女性も慌てて駆け寄ってきて、リードを必死に掴んで大型犬から離そうとする。
 その時だった。いきなり男がリードを離した。
大型犬は待ってましたとばかりに突進し、今にも噛みつこうとばかりの体勢なのだ。
 女性は泣きそうな声で制止を叫び、男の方はそんな姿を楽しんでいるようで、顔には笑みさえ見えるのだった。
 そんな状況を予想したわけじゃない。
 逃げ出した子犬を捕まえてあげようと、そんなふうに思っただけだ。
 ちょうど女性に追い付いた時に、リードが男の手から放たれたのだ。もちろんこっちは還暦過ぎのジジイだし、まさに骨と皮ばかりの枯れ木のような存在だ。
 それでも身長だけは一メートル九十センチ近くある。いくら大きい犬だろうと、地上一メートルくらいから見上げれば、きっと恐ろしいに違いない……などと即行思って、彼は一気に子犬の前に飛び出した。
 腕組みをして、真上から大型犬を見下ろしながら大きな声を出したのだ。
「やるならやってみろ! 人間様を舐めるんじゃないぞ!」
 自分でも驚くような大声だったが、内心、これでダメだったらどうしようかとドキドキだった。
 ところがそんな強張った顔のまま、彼が視線を男へ移すと、男の顔付きが一気に変わった。既に笑みはその顔になく、男は慌てて大型犬に駆け寄って、リードを手にしてさっさと背中を向けてしまうのだ。
 まだまだ去り難い思いで一杯の飼い犬を、男は両手で引っ張りながら土手の方へと歩いて行った。
 すると彼女は慌てて犬を抱き上げ、何度も何度も彼に向かって頭を下げる。
 その時思わず、彼は彼女の苗字を口にした。
変に思われないかと後悔したが、
「あ、もしかして、仕事中にお会いしてますか?」
 などと言って返し、強張っていた表情が一気に明るくなったのだった。
 きっとこれまでに、似たようなことがあったのだろう。
「わたし、しょっちゅうネームプレート外すの忘れちゃうんです。だから〝綾野〟って名前、この界隈で結構知られていたりして……」
 そう続けて笑顔を見せる彼女とは、これ以降、あっという間に親しくなった。
 と言っても週に何度か公園のベンチで話す程度だが、それでも彼にとっては何より楽しいひと時となる。
 そしてこの日、久しぶりに出会った彼女は、彼を家まで送ると言い張ったのだ。
もう大丈夫だと声にしても、
「わたし今日、仕事お休みなんです。だから何を言われたって付いていきますからね、天野さんのご自宅まで……」
 そう言って彼のそばから離れようとしない。
 どうせボロアパートを目にすれば、さっさと退散するだろう。そう思っていたのだが、綾野という女性は全くもってそうじゃなかった。
 鍵を開けた途端、さっさと自ら部屋に入り込み、
「押し入れ、失礼しますね〜」
 そう声にしたと思ったら、いきなりせんべい布団を敷き出した。
 ――ひどい顔をしている。
 ――絶対どこか悪いか、どうしようもなく疲れているに違いない。
 ――だから素直に、横になってください!
 さっき起きたばかりで、まだ寝ませんよ……と、笑いながら声にすると、彼女は一気にそんなことを捲し立てた。
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