第7章 -  2 それぞれの決意(2)

文字数 1,691文字

 2 それぞれの決意(2)
 


 達郎はまさみと結婚した頃、やはり世田谷区にある、そこそこ大きな総合病院の勤務医だった。
 結婚後、半年もしないうちにまさみが妊娠。彼の勤め先に近かった産婦人科に入院し、無事に男の子を出産する。
 彼はその日のうちに病院を抜け出し我が子と面会。その時に撮影された白黒写真には、達哉の知らない若々しい母の姿があったのだ。
 しかしその写真の主役はまさみではなく、彼女に抱かれた赤ん坊の方だった。
 浩一誕生。
 五月五日、O型。
 写真の裏は薄汚れていたが、それでもなんとかそう読み取れる。
 インクで書かれた文字はひどく滲んで、雨にでも濡れたのか――もしかしたら涙の痕なのか――、ただとにかく、父、達郎の文字なんだとすぐ知れた。
 達哉の生まれる三年前に、本来なら〝兄〟と呼ぶべき存在がいた。
「病院から帰る時にも、新生児室にいる子供の寝顔を見に行ったんだ。まさか、それが最後になるなんて……思いもしなかったよ……」
 次の朝には行方知れずとなっていて、公開捜査となってからも解決への糸口さえ掴めなかった。
「次の日、まだ日も昇らないような時間だったよ。いきなり家に電話があったんだ。赤ん坊が消えたって、すぐに来て欲しいからって……言われたよ。だけど、いきなりそんなこと言われたって、最初は、その意味さえ分からなかったさ……」
 それから半年経ち、一年が経っても、いい加減な憶測ばかりが紙面を踊った。
「最初はな、金目当てだって思ってたんだ。警察もそう言っていたし、だから、その頃まだ生きていた父に頼み込んだりして、とにかく集められるだけ金をかき集めたよ……なのに、いつまで経っても、一週間したって、ひと月待っても、なんの連絡も来なかった。こっちは身代金でもなんでも、いくらだってくれてやるつもりだったのに……子供さえ、あの赤ん坊さえ、返してくれるなら……」
 赤ん坊のできない女の仕業か?
 はたまた臓器売買の餌食となったか?
 ただとにかく……営利誘拐じゃないらしいってことで、好き勝手な記事が達哉の両親を苦しめ続けた。 
「でも、きっとあいつは、今もどこかで生きている。いつか絶対、俺たちの前に現れてくれるって、わたしも母さんも、今だって、心からそう信じてるんだ。しかしまあ、そう考えられるようになったのは、本当のところここ最近で……そうなるまでには色々あったし、ずいぶんと長い時間が掛かってしまったけどな……」
 事件から二年と少し経った頃、まさみが達哉を身こもった。
 二人はとことん話し合いを重ね、生まれてくる子供には、二人が経験した苦悩を知らせないようにしようと考える。
 親戚や、親しい友人にもキツく言い含め、事件のことは徹底的に隠し通そうと決めたのだった。
 達郎は勤務医を辞めて、小さな診療所を開設する。
 そしてそこから程近いところに一軒家を購入し、独身時代から住んでいた賃貸マンションから引っ越した。同じ世田谷区ではあるが、知り合いのまったくいないところで再出発しようと考えたのだ。
 ところがそうそう上手くはいかない。
 達哉が生まれた頃から、まさみが妙に塞ぎ込むようになった。
 事件後にあった、激しさを伴う感じと違っていたから、子育てのせいだろうくらいに達郎は思う。一方彼は彼で、開業したばかりの診療所のことで手一杯だった。
 そこそこ軌道に乗り始めても、自らを追い込むように仕事の量を増やし続ける。次第に二人の間に不穏な空気が滞留し、そんな状態の中でも達哉はすくすく成長する。
 そうして現在に至るまで、浩一という兄について知ることはなく、当然、浩一の安否は不明なまま……。
 ――なのに。今になってどうして?
 フッと浮かんだそんな疑問も、あっという間に達郎の口から答えが聞けた。
「今、浩一がどうなっているのか、それは誰にも分からない。だから、そこんところがどうあれ、だ……達哉、おまえにはこれからも、しっかり生きていって欲しいんだ。それで、わたしの代わりに、母さんを、よろしく頼む……」
 そう声にした後、
「少し、疲れた……」
 達郎は静かにそう続け、瞼をゆっくり閉じたのだった。
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