第1章 - 3 決意(2)

文字数 1,736文字

 3 決意(2)
 


「まさかあれか? またよ! 記憶喪失ってんじゃ、ねえだろうな?」
 これには本当に驚いて、目を見開いて固まってしまった。
「おいおい、冗談だろ? 本当に? 俺のこと、忘れちまったのか?」
 そう言いながら、男は達哉に近付いてきて、彼の頭をあっちこっちから眺め始める。
「う〜ん、どうにもなってないけどよ、おい、どうなんだ? 自分の名前、ちゃんと言えるかい?」
 そこではっきり飲み込めた。
 ――二年前、彼もここで、何かを言われたんだ。
 そう思うと同時に、達哉もしっかり声にする。
「達哉です、藤木達哉……名前はね、覚えてるんですけど……」
 すると男は目を丸くして、
「おいおい、勘弁してくれよ〜 ホントかい? う〜ん……参っちまうな〜」
 そんな言葉を投げ掛けてから、男は〝ついて来い〟という仕草を見せて、さっさと店から離れていった。
 達哉が付いていくと、男は三軒隣にあった焼き鳥屋、〝児玉亭〟に入り込み、
「正一! 開店前なのに悪い! ビール一本とグラス二つ!」
 大きな声でそう言って、〝そこに座れ〟と四人がけテーブルを指さした。
 そうして結果、彼のお陰でいろんなことが知れるのだ。
 男は魚屋の大将で、なんと達哉の父、藤木達郎と小学校の同級生だった。
「おりゃあよ! お前が変わってくれて、本当に嬉しかったんだぜ!」
 大将の方は昔から、達哉のことを知っていた。そして中学くらいから、彼がどんどんおかしくなっていくのをずっと心配していたらしいのだ。
 そうしてある日、商店街をフラフラ歩いている達哉を見掛けて声を掛けた。
「なんかよ、気が付いたら、道路に寝転んでたって言ってたぜ? 頭におっきなコブができててさ……で、今度も車か? それともまさか、喧嘩ってわけじゃ、ないんだろう?」
 そして達哉もそうしたように、彼も記憶喪失のフリをした。
 ただとにかく、彼は日に日にこの街に溶け込んでいき、本来の時代でもそうだったようにみんなに好かれていったのだろう。
「まあよ、普通にしてりゃいいんじゃないの? 何か言われたら、うんうんと言っとけばいいんだよ。そうすりゃさ、万事うまくいくって!」
 なぜだかいきなり、事故に遭った以降の記憶が消えて、逆にそれ以前の記憶が舞い戻った。そんな大嘘を信じ込み、大将はそう言ってから、さも嬉しそうに親指を立てた。
 達哉になった彼だって、きっと最初は驚いただろう。
 あのT字路で目が覚めてから、訳がわからず困惑しながらこの辺りまで来て、やっぱりここの大将に救われたのか? それからだって、きっと天野翔太だった達哉以上に難しい問題が山積みだった筈なのだ。
 それでも置かれた状況の中、長い人生経験を生かして必死になって頑張った。
 母、まさみが入院したから家事全般を担当し、さらに退院してからも、失った目に慣れるまでずっと料理を作ったらしい。
 だから毎日のように、彼はこの商店街で買い物をした。
 そうするうちに商店街の連中とも親しくなって、様々な出来事にも関わっていくようになったのだ。
 酒屋の二代目が酒を絶ったのも、彼の働きがあったからで、
「だってよ、まさに高校生離れしてたかんな、やる事なすこと、あんたはさ……」
 そう言う魚屋の大将も、何やら彼への恩義を、かなり感じちゃってるらしいのだ。
 そうして結局、彼は勧められた〝ぶり〟を買い、ぶり大根の作り方まで教えて貰った。
 だからその夜は、達哉お手製のぶり大根で、初めての割にはなかなかうまくはできたと思う。
「達ちゃんのお料理、久しぶりだわ……」
 そう言って嬉しそうに微笑むまさみを前に、彼は心の中で呟いたのだ。
 ――ごめんよ、母さん……。
 実際、声にもしたかったが、大将から聞いた話がそんな思いを封じ込めた。
 達哉だった彼の奮闘ぶりを思えば、
 ――きっと、散々謝ってくれただろうから……。
 そんなことが、安易に想像できたのだった。
 彼は達哉の代わりに、何から何まで一生懸命やってくれた。俺がどう思おうと、とにかくすべてが、以前よりも断然いいに決まっている。
 これからが、どうなっていくかは別として……、
 ――俺が大学生、だもんな……。
 そんな事実に感謝しないでいられるほどに、達哉も以前通りの達哉じゃなかった。
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