第3章 -  2 千尋と翔太 

文字数 1,115文字

 2 千尋と翔太 
 


 島根県の出雲市から上京したのが今年の春で、既に三ヶ月近くが経っている。もちろん行きたいところは山ほどあるけど、残念ながらどこにも行けてはいなかった。
 学校から帰ってすぐ、夕方五時からバイトがあるし、これがなかなかの重労働。
 金土は十一時までで、それ以外は九時までだ。休みは月曜日だけだから、掃除や洗濯なんかに、大学のレポートだってしなきゃならない。
 それでも家賃と学費は親持ちなんだから、これで文句を言ったらきっと神様がプンプンだ……ってくらいには道理も解るし、それなりに人生キチンと生きてきた、と思う。
 なのに彼と出会ったせいで、
 ――世の中、もっと大変な人がいる……。
 なんてことを感じたし、「もっともっと頑張らなきゃ」と、素直に思ってしまった自分がいたのだ。
 はじめはアパートを出る時に、たまに見かけるだけだった。
 お互いチョコンと頭を下げて、いつもさっさと視線を逸らしてしまう。
 ところがある日、思わぬところで彼にしっかり出会した。
 ――新人バイトの歓迎会をやろう!
 一緒に入ったバイト男子にそう告げられて、バイト終わりに付いていったお店に彼がいた。
 カウンターに座ろうとして、ちょうど目の前にノッポの彼が立っていた。
「あっ」と思って、
 ――こんにちは!
 そう声を出そうとした次の瞬間、
 わたしに気付かなかったのか?
 それともツレがいたからか?
 とにかく彼は、さっさとカウンターから出ていてしまう。
 それから、どのくらい経ったのか? 
 そして二杯目だったか、すでに三杯目だったのかも知れない。
「おんなじので、いいよな?」
 連れて来てくれた彼がそう言って、少し残っていたカクテルグラスを指さした。それから人差し指を二回ほど振って、まさに〝飲んじゃえ〟っていう顔付きを向ける。
 甘酸っぱくて美味しいけれど、少しアルコールが強いかなって感じのお酒。それでも底に残ったピンク色の液体を頑張って飲み干すと、彼はカウンターに向かってカクテルの名前を告げたのだ。
 そうしてほんの数分後、新しいカクテルグラスが差し出される。
「あの、お客さん……」
 彼の座っている反対側から、
「飲む前に、ちょっと立ってみたほうがいいですよ」
 なんて囁き声が聞こえて、「えっ」と思って顔を向ければ、
「こんにちは……」
 さっき言いかけたのとおんなじ言葉を、今度は天野翔太の方から言ってきた。
 ――え? どうして……?
 そう言い掛けた時には背を向けて、彼は店の奥の方を指差した。
「トイレは、あっちですよ」
 そんな言葉を今度ははっきり声にする。
 だから隣の彼に、
「ちょっと、トイレに行ってくるね」
 そう声を掛け、立ち上がろうとしただけだった。
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