第6章 - 4  箱根旅行(3)

文字数 968文字

 4  箱根旅行(3)
 


 そんな彼へ、達哉は咄嗟に返す言葉が思い付かない。
 だからさっさと脱衣所を抜け出し、内風呂の先にある露天風呂へと一人で向かった。
 最低だってのは知っていた。
 ところが知っていた以上に最低で、史上最悪のやつだった。吐き気がするほどムカついて、外の冷気にも寒いだなんて感じないくらいだ。
 ――あの野郎……。
 達哉だったあの頃にも、きっと背中にあったのだ。
 それでも年月を経ていて目立たなかったか、或いは目にしていても、あえて口にしないでいてくれたのか……?
 ――そんな人たちにきっと、囲まれていたんだろうな……。
 そう決めつけて、彼が湯船に浸かって空を見上げた時だった。
 不思議なくらい突然に、ストンと過去の記憶が舞い降りる。
 ――あれは、一緒に暮らし始めて、すぐ……の頃だ……。
 背中について尋ねてきた人物が、たった一人だけ存在したのを思い出す。
 ――ここ、どうしたの?
 ――え? 何か、背中にある?
 ――うん、傷……いえ、火傷、かしら?
 ――へえ、覚えてないな? それってひどいの?
 ――いいえ、そんなこと、ないけどね……。
 そこで背中をパタンと叩き、彼女はいきなり話題を変えた。
 そうしてそれ以降、背中について二度と聞いては来なかった。
 籍を入れてすぐ、二人で熱海へ旅行に行った時だ。貸し切りの露天風呂に二人で浸かって、彼女の第一声が背中についてのことだった。
 彼女はきっと、あえて言葉にしなかった……と思ったろう。
 ――でも、あの頃俺は、何も知っていなかった……。
 そんな過去について考えていると、やっと翔太が露天風呂に姿を見せた。
 すでに内風呂で温まってきたようで、湯気が身体中から立ち上っている。彼は少し離れたところで湯船に浸かり、気持ちよさそうな声で達哉に告げた。
「きっとさ、背中にあんなことするような最低な男から、俺を、救ってくれたんだよな、俺のお袋は……」
 そう声にして、「ふ〜」と大きく息を吐いた。
 男の方から出て行ったんじゃなくて、男の元から逃げ出した……ってのが、本当なんだと言うのだろう。
 実際どうだったのか? 
 今となっては知りようもない。
 ただそれは、もはやどっちであろうと関係ないと、達哉は心密かに思うのだった。
 ――きっとこれまで辛かった分、これからは、良いことばかりに決まってる!
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