序章  

文字数 4,198文字

1  1977年 4月末日

「臭い! 何か変なニオイがしない?」
 そう呟いた女の隣で、腕を組んでいた中年男が顎を突き出し、苦み走った顔をした。
 二人のちょうどすぐ前に、一人の老人が立っていた。男の視線もそこに向けられ、女性もその姿に気が付いて、まさに〝この世の終わり〟という顔をする。
 そこは駅前にあるアーケード商店街で、そこそこの人通りはあるのだが、車が通らないおかげでそんなに窮屈な感じはしない。
 そんな天下の王道で、そこそこ目立っていたのが先程の老人だった。
 きっと、何年も風呂にも入っていないどころか、顔だって洗ってないのだろう。
 目に入っただけで、すぐにそのニオイを想像できるし、実際そばに近付けば、その異臭に顔をしかめること間違いなしだ。
 4月も今日で終わり。
 明日からは5月というポカポカの日に、老人は薄汚れたコートを着込み、汗もかかずに通りの中央に立っていた。通行人の無遠慮な視線の中で、彼は何もせず、ただ立っているだけのように見えている。
 顔に刻まれた無数のシワが、それなりの年齢を感じさせた。
 それでも老人の割に毛量は多く、肩まで垂れ下がった毛髪は、まるでノリで固めたように揺れ動かない。
 何より特徴的なのは、左右のあまりに太い眉毛に、その中央にある驚くほど大きな「ホクロ」だった。黒豆でも付いているのかという印象で、きっと一度でも目にした者は、しばらく忘れることなどできないだろう。
 きっと正月の煮豆を見るたび思い出し、嫌な思いだってするかも知れない。
 通行人の大半はそんな特徴を目にした後すぐ、嫌なものを見てしまったとでもいうように、慌てて視線を逸らすのだ。
 ところがごくごく稀に、図々しいほど見つめ続け、わざわざ顔を覗き込んでいく輩がいたりした。老人はそんな時も表情を変えず、じっと前方を見つめたまま動かない。
 ずっとそんなだった老人の顔が、ある時一気に変化する。目を大きく見開いて、何事かを呟いたと思ったら、いきなり前に向かって走り出した。
 そんな突然の行動に、通行人らは慌てて左右に散らばり避けようとする。
 ところが向かい側から来た自転車が、そこそこスピードを出していた。
 慌ててハンドルを切ろうとするが間に合わず、自転車は老人の右半身をかすめて、ヨレヨレのコートがそのハンドルに巻き付いた。コートは自転車に引っ張られ、彼はくるんと一回転して勢いよく吹っ飛んだ。
「バタン!」と大きな音がして、背中を上に地べたにベタっと倒れ込む。自転車はそのまま走り去り、その瞬間、通行人の目が一気に老人へと注がれた。
 しかし誰一人として近寄ろうとせずに、大半はすぐに視線を逸らしてしまうのだ。そして老人はまるで動かずに、気でも失っているように微動だにしない。
 そんな彼に声が掛けられたのは、それからすぐのことだった。
 背の高い青年が走り寄り、彼の耳元で必死の声を上げたのだった。
 すると思いの外すぐに目を開けて、彼は「大丈夫、大丈夫」と言いながら、立ち上がろうとする動きを見せる。青年は老人の身体に腕を回して、立ち上がるまで彼を支えた。
 それから十数秒後、青年は老人から離れて、連れらしい若い女性の元へと走って戻る。
 すると女性は不思議そうな顔をして、戻ったばかりの青年に向かって声にした。
「どうして? どうしてお金なんてあげちゃうの?」
「え? ああ、千円だけ、千円だけだよ」
「あなただって、負けないくらいに貧乏じゃないの? なんか、不思議……」
「でも、俺には家もあるし、あの人より未来だって、たくさんあるから」
「家? 家ったって、ボロボロのアパートじゃない?」
「それを言ったら、お前だって一緒だろ? 同じアパートの住人じゃないか……」
「まあね、でもさ、わたしは千円あげないもん!」
 不思議そうだった顔は笑顔になって、再び不満そうな顔付きになる。そんな女性を見つめながら、青年の顔には常に優しい面持ちがあった。
「ねえ、早く行かないと、わたしバイト遅れちゃう」
「ああ、そうだな、よし、少し急ごう!」
 青年はそう言いながら後ろを振り向き、心配そうにさっきの老人に視線を送った。すると老人は千円札を握り締め、あたりをキョロキョロと見回している。
 きっとその千円札で、何を買おうかと思案しているのだろう。そんな姿に安心し、彼が歩き出そうとした時だった。
 三人組の高校生とすれ違い、その内の一人と肩どうしがぶつかってしまった。
 それはそこそこの衝撃で、
「あ、すみません!」
 青年はすぐそう声にして、ちょこんと小さく頭を下げた。しかし高校生の方は、まるで他人事のように会話をしながらさっさと歩き去ってしまうのだった。
「お前さ、今のわざとだろ?」
「わかる? 一緒の女の子さ、ちょっと可愛かったろ? だからさ、天に代わってお仕置きしたのよ〜」
 そんな言葉に大笑いする三人は、どう見たって優等生じゃなかった。学生服こそ着ているが、首から上だけでそれなりの〝ワル〟にはしっかり見える。
 ポマードベッタリのリーゼント頭にチリチリ寸前のパンチパーマ、そしてもう一人がロン毛に金髪とくれば、普段着ならまさに〝チンピラ〟っていうところだろう。
 そんな不良高校生が向かっていたのは、最近、若者の間で大人気のハンバーガーチェーン店。二百店舗めが駅前にできたと聞いて、彼らは午後の授業をサボってやってきた。
 そしてちょうど店の前に到着した時、〝棚からぼた餅〟〝濡れてに泡〟で千円札を手にした老人もそこにいた。
 彼は自動ドアの前に立って、店の中をキョロキョロと見回している。
 それは店に入るのを躊躇っているというより、ワクワクする気持ちを抑えきれない――というふうにも見えるのだった。
 ただただ、彼の立っている場所が悪かった。
「邪魔だってジジイ!!」
 そんな声が聞こえた時には、老人は地べたに吹っ飛んでいる。手加減ゼロの足蹴りを喰らって、彼は一瞬何が起きたかわからなかった。
「おめえみたいのがよ! こんな店に入ってくんなってんだよ!!」
「そうだ! こんな表の通りを歩いてんじゃねえって!」
 そんながなり声を聞きながら、老人は必死に立ち上がろうとした。ところが痛みのせいなのか、なかなか立つことができないでいる。彼はぜいぜい息をして、顔を少しだけ上へ向けたのだ。
 すると高校生の一人と目が合って、彼はそのまま目を動かさない。
 実際、睨みつけたのか? たまたま目に入っただけなのか? ただとにかく、そんな視線が高校生らのさらなる怒りを買ってしまった。
「てめえ! なに睨みつけてんだよ!」
 金髪が大声を上げ、老人の背中を力一杯踏み付けた。
 続いて残りの二人も、老人の身体あちこちを踏んだり蹴ったりし始める。
 老人は亀のように身体を丸め、ただただ彼らの仕打ちに耐えるだけで精一杯だ。何事かと通行人も足を止め、視線を向けるが、やはり誰も助けようとはしないのだった。
 そしてそこで再び、老人にとっての救世主が現れる。
「あんたたち! 何やってるんだ!」
 走ってきた勢いのままそう大声を上げ、青年は慌てて老人の傍らにしゃがみ込んだ。
「おじいさん! 大丈夫ですか!」
 そう耳元で声を掛け、再び高校生らへ苦み走った顔を向ける。それから一人一人を睨み付け、そのまま何も言わずに老人の方へと向き直るのだ。
 老人の方は恐る恐る顔を上げ、青年の顔をチラ見してからちょっと驚いたような顔をする。きっと二度にわたって助けられ、素直にそんな事実に驚いたのだろう。
 一方高校生らは顔を見合わせ、「やるか?」「どうする?」なんて感じを演じていたが、なかなか結論が出ないまま、パンチパーマが誰に言うともなく声にした。
「まったくよ! きったねえツラ見せられて、食欲がなくなっちまったぜ!」
 すると残りの二人もなんだかんだと似たような言葉を口にして、それからすぐに高校生らはいなくなってしまうのだ。
「痛いところとかないんですか? ホント、病院とかに行かなくて……」
 大丈夫ですか?――と続けようとしたところで、連れの女性の顔が大きく歪み、左右に細かく何度も揺れる。
 それを見た青年は、そのままその言葉を飲み込んだ。
 高校生とぶつかった後、青年は妙に気になって、何度も後ろを振り返っていた。そうしてちょうど、老人が地べたに吹っ飛んだところを目撃し、一目散に駆け付けたのだ。
「もう、大丈夫ですから……ありがとう、ございました」
 身体を前屈みにして、老人は何度も何度もそう言った。そして連れの女性に思いっきり急かされて、青年は後ろ髪を引かれるようにそこから離れていったのだ。
 一人残された老人は、自らコートに付いた汚れを叩き、思い出したように遠ざかる青年へ視線を向ける。それからほんの少しだけ広角を上げ、何事か……短い言葉を呟いた。
 それは呪文のようにしばらく続き、すうっと息を吸い込み、終わるのだった。
 老人はそれから頭上を見上げ、まるで何かを受け取るように手のひらを上にして、ほんの少しだけ身体の前にその手を伸ばした。
 するとどこから現れたのか、頭上から、フワッと何かが舞い降りてくる。
それはクシャクシャになった千円札。まるで吸い寄せられるように老人に向かって降りてきて、その手のひらに吸い付くように収まった。
 彼は丸まった千円札を両手できれいに伸ばし、それを大切そうにコートのポケットにしまい込む。そうしてゆっくり歩きだし、十メートルほど歩いたところで細い路地に入っていった。
 ちょうどその時、老人の後ろを歩いていたスーツ姿のサラリーマンが、なんの気なしに老人の入り込んだ路地に目を向けた。
 すると、あれ?――という顔をして、彼は足を止め、細い路地を凝視する。さらに二、三歩路地に向かって歩き出し、辺りをキョロキョロと見回した。
 そこは袋小路になっていて、突き当たりには土剥き出しの空き地があるだけだ。
 左手は雑居ビルの壁があり、反対側も同様だから、ここに入って来たものは誰であろうと引き返すことになるだろう。
 だからそのサラリーマンも、すぐに入り込んだ路地から出て行った。
 そうして商店街の通りに戻っても、彼は二度ほど路地の方を覗き込み、不満そうな顔を繰り返すのだ。
 ――あいつ、どこに消えたんだ?
 なんて思いを滲ませたまま、彼はようやく吹っ切るように歩き始めた
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