第4章 – 現れた女(4)

文字数 2,019文字

 現れた女(4)



 周りに知られぬよう、腹や背中ばかりを集中的に殴る蹴る......
 
 そんな薫の夫の話が、

 妙に美穂子の悲惨な姿を思い出させた。

 とりあえず、薫の料理は申し分ない。
 
 それに多少やつれている印象はあるが、その顔はなかなかの美人なのだ。

 美穂子ほど肉感的なものではないが、

 それなりに上品な色気を持ち合わせてもいる。
 
 酔った客のあしらいにどれだけ慣れてもらえるか、
 
 あとはそれだけだった。
 
 その後佐久間薫は、前田の口利きでアパートを借りた。
 
 以前飯島が世話になった役所の八木が、

 今回もいろいろと力になってくれたのだ。

 そして彼女は、初めて顔を見せてから3日目には店で働き始める。

 最初の数日だけは多少戸惑いもあったようだが、1週間もすると、

 店の戦力として申し分ない動きを見せるようになっていった。

 心配していた客とのトラブルなど一切なく、

 とにかく不思議なほど、薫は男性客から人気を集めるようになるのである。

 夜の商売などを連想させない彼女の雰囲気が、

 きっとその主因であったのだろう。

 この人は頭がいいのだと、飯島は素直にそんなことを感じていた。

 もしかすると薫を雇ったのは、

 非常にラッキーなことだったのかも知れない。

 飯島は次第に、そんな風に思うようになっていく。

 ただ唯一、由香だけはそんな薫の存在を、決して喜んではいなかった。

 店を手伝わなくてよくなった分、

 客として顔を出す回数は格段に増えていったのだ。

 そして店は少しずつ、以前の賑わいを取り戻していく。

 このまま平穏な日々が続くかと思われたある日、

 薫の身に突然、以前の恐怖を思い出させるような出来事が起きるのだ。

 そんなことはやがて、飯島をも巻き込み、

 新たな展開を生み出していくのであった。
 
それは、薫が初めて店へと顔を見せてから3ヶ月あまり経過した、

 5月のある早朝のことだった。

 一見、ごく普通のサラリーマンのように見える。

 しかし実際そうではないのは、

 しばらく観察していれば分かることだった。 

 男は同じ場所で、ずっとある一点を見つめ続けていたのだ。

 そんな行為から想像できる職業と言えば、

 警察か、探偵くらいのものなのだ。

 ストーカーや変質者という可能性がないではないが、

 そのあまりにスッキリとしたスーツ姿からは、

 刑事である可能性さえも排除したくなる印象であった。

 男の視線の先には、昭和を感じさせる木造アパートが建っている。

 そして、その2階にあるひとつの扉を、

 男は重点的に見つめているように思えるのだ。

 ――探偵だろうか? 
 
 そんなことを思って、その姿をしばらく見つめている女がひとり……。

 思った通りであれば、もうあのアパートへは戻ることは叶わない。

 せっかく落ち着いてきたところだったのに......

 そう思って愕然としているのは、

 顔を赤くして立ち尽くしている佐久間薫だった。

 ――たった3ヶ月で見つかってしまったの? 

 そうであると決まったわけではないが、

 だからといって、とても今、あの扉に近づく気にはなれなかった。

 ――ここまでどうして……あの人はわたしを探そうとするのか……?

 そこのところが、薫にはまるで理解できなかった。

 どんどんおかしくなっていくだけでなく、

 それに連れて、薫への執着も強くなっていくようなのだ。

 薫は朝のジョギングから戻ったところだった。
 
 朝5時に起き出し、白湯をコップ一杯飲んだだけで、

 海の見える高台までを走ってきたのである。

 スナックが夜11時に閉店し、アパートに辿り着くのが午前零時頃。

 薫はいつも、ほとんど何もしないまま寝てしまう。

 そして人が夜やるようなことをすべて、

 朝のジョギング後にするようにしていた。

 そんなことを知らない男は、

 薫がまだ寝ているとでも思っているのだろう。 

 スナック勤めの女にとって、

 朝の6時とは、普通そんな時間であるはずなのだ。

 男の背後20メートルほど離れた物陰から、

 薫はしばらく男の様子を窺い続けた。

 やはり男の行動から察すれば、

 薫の恐れる事態が迫っている可能性を強く感じる。

 しかしこの時、彼女の中には、例えそうあろうとも、

 この土地から逃げ出すという考えは浮かび上がってこなかった。

 では、どうしたらいいのか……

 やはり、ここから逃げ出したと思わせる以外ないのだ。

 探偵が来たことに気がつき、

 薫は着の身着のまま違う土地へと逃げ出したのだと……。

 ――スナックまで、知られているだろうか?

 けれど、もしそうなのであれば、彼女の取るべき行動は大きく違ってくる。

 ある意味、一か八かだった。

 ここで躊躇していれば、

 取り返しのつかないことになってしまうかも知れない。

 薫は意を決すると、すぐにその場から逃れるように歩き出した。

 その時、薫の顔は、これまでこの土地では見せたこともない、

 恐ろしいまでの決意を漲らせているのであった。
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