第9章 – 覚醒(6)

文字数 823文字

 覚醒(6)
 


 いくつかの目撃証言に共通するのは、

 玲子が必ず、別れ際に口にしていた言葉であった。

「息子が待っている、息子が待ってるから……」

 そしてそのあと、目的地である低山の名前を上げるのだ。

「そうかい、頂上で息子さんが待っているのかい。それじゃあ、急いで登らん
 といけないね」
 
 そう返したと言う登山口駅の駅員は、

 いきなり話しかけてきた玲子のことを、

 不思議に思うほどしっかりと覚えていた。

 順一はあの晩、思わず叫んでいたのである。

「勘弁してくれ! もう……どこかに消えてくれよ!」

 片付けている間にも、順一へと怒鳴り散らす玲子に向け、

 彼は心からそう思っていたのだった。

 ――僕が、母さんを追い詰めた? 

 ――母さんは……僕が言ったことを忘れないでいられたというのか? 

 まさか……そんなこと……。

 その時、彼女の行動すべてが息子のためにあったのか、

 それはいまや......誰にも分からない。

 しかし間違いなく、順一の言葉が引き金となって、

 彼女は山へと向かっていたはずなのだ。

 ――僕が……母さんを殺した。

 順一はそんな思いを抱えたまま、玲子が発見された場所に立った。

「母さんも……これを見ていたんだね……」

 玲子は昔から富士山が大好きだった。

 生まれが静岡だったせいなのか、とにかく事あるごとに、

 富士山を見に行きたがるところがあったのだ。

 それはだいたいの場合、近所から眺めるだけのことだったが、

 それでも彼女にとって、それなりに意味のある行為だったのだろう。

 そして今、順一も杉の木を背にしながら、

 視界の中心に富士山を眺めていたのである。

 それは色濃く染まった紅葉の中、

 まるで浮かび上がるように見え届いているのであった。

 そんな静寂の中、彼は亡き母に向けてそっと呟く。

「母さん……ごめんよ……本当に……」

 涙が止まらなかった。

 そして彼は涙ながらに、彼女が見ていたはずのこの景色を、

 一生忘れまいと心に強く誓うのであった。
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