第10章 – 認 知(9)

文字数 994文字

 認 知(9)



「それからおじいちゃん、どんどんおかしくなっちゃったみたいでさ……お母
 さん家に帰ってきたんだけど、警察から電話が掛かってきちゃって、仕方な
 くおじいちゃんの家に行ったんだ。でも、それからが結構、大変だったんだ
 よ……」
 
 順一は静岡のアパートの一室で、

 ひとり、そんな唯の言葉を思い出していた。

 頭脳明晰を絵に描いたようなあの人が、

 そんな風になるなんて――そんな驚きを感じながらも、

 心のどこかで、いい気味だと嘲笑う気持ちがないわけではなかった。

 唯が言うところには、武彦は佐和子が出て行ったあとすぐに、

 自ら家政婦を雇っていたらしい。

 しかしどれもこれも1週間と続かない。

 武彦は全ての家政婦に対して、妻であった和子と同じ動作を期待した。

 ただでさえ良くできた和子の、

 それも武彦の我が儘を知り尽くした結果であるものと、

 土台同じようにできるはずがないのだ。

 結果、たったひとりの生活が続き、

 武彦の言動は少しずつおかしくなっていった。

 そしてとうとう、円満な退職であるという演出の中、

 実際には病院を追われることにもなったのだ。

 退職後数ヶ月の間はそれでも、食事にでも行くのか、

 夕方タクシーに乗り込む姿が見られたりしていた。

 しかし半年も過ぎた頃には、

 近所でその姿を見かけることが滅多になくなる。

 彼は食事すべてを、店屋物で済ますようになっていたのだ。

 そしてある日、昔から馴染みの鮨屋が、

 いつものように器を取りに訪れた時だった。

 玄関に置かれているはずの器が見当たらない。

 チャイムを鳴らしても反応はなく、鍵も掛かっているのである。

 仕方ない……まだあとで来てみるか、と思い、

 彼は何気なく玄関から広い庭へと視線を移した。

 ――おかしくなった……!

 彼がそう思った一番の原因は、その笑顔にあった。

 彼の視線の先に、真冬の寒空にもかかわらず、

 武彦がランニングシャツ一枚で立っていた。

 その顔を鮨屋へと向け、見事なまでに顔を歪ませ笑っていたのだ。

 武彦は鮨屋の見守る中、何度も雄叫びを上げながら、

 家の中にあるものを庭へと放り出した。

 見れば庭の家側一角に、既にたくさんの家財道具が放り出されていた。

 鮨屋は困った挙句、とうとう警察へと電話する。

 そして連絡を受けて戻った佐和子は、

 あまりにも荒れ果てた屋敷の姿に声も出せず、

 しばし立ち尽くしていたのである。
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