第3章 – 事情 ・ 2012年1月(8)

文字数 1,175文字

 2012年1月(8)



「ごめんなさい、もう閉店にしたの……」

「なんだ、働くだけじゃなくて、飲むのも断るってのか? ひでえ話だな、お
 い……」

「違うのよ、本当に今日は疲れちゃって……だから、明日だったら歓迎するわ」

「明日? 明日まで、俺が生きていられるかどうかなんて分かるのか!?

 そんなあまりの大声に、美穂子は思わず立ち上がる。

 その時運悪く、ロングスカートの深いスリットから、

 太腿までが丸見えになってしまった。

 スカートの柔らかな生地が、ソファの突起部分に巻きついてしまい、

 完全に捲れ上がっていたのである。

「それからは、もう最悪……」

 そう言って悲しげに笑う美穂子は、

 本来そこまでのことを、話すつもりはなかったのだと言った。

 しかしさっき目を覚ましたばかりの美穂子に対し、

 狂ったように問い質す前田には、

 到底黙っていることができなかったらしい。

「あの人、昔の目をしてた……だから止めさせて欲しいの。飯島さん、こんな
 こと頼めるのはあなたしかいないから、お願い……」

 そんな美穂子の頼みを、

 飯島は断る術など持ち合わせてはいなかった。

 俺は、その時分いた野郎の首を切って、あんたを雇ったってわけよ......

 そんなことを言っていた前田によって店を首にされた繁田は、

 どこに勤めても長続きしなかったらしい。

 結果、定職もなく妻にも逃げられた彼は、

 酔った勢いにしろ、ここに来て前田への完璧な復讐を果たしていた。

 そしてそんなことはすべて、

 飯島の存在なくしては起き得なかったとも言えるのだった。

 そして......、

 ――頼む……間に合ってくれ!
 
 タクシーの中で祈り続けたそんな願いは、意外にもすぐに達成される。

 前田は確かに、繁田の家にまで行ってきていたのだ。
 
 しかしその時既に、繁田は引っ越したあとであった。

 繁田は引っ越しの作業をすべて終わらせ、

 長年暮らした街に、別れでも告げるつもりで飲んでいたのだろう。

「不動産屋で、引っ越し先を教えろって頼んだんだが、どうやら本当に知らな
 いらしくて……だからどこかに、あいつの実家の住所がなかったかって思っ
 てな……」

 それで前田は、ちょうど到着した飯島と、

 ばったり前田の家の前で鉢合わせしていたのである。

「確か、履歴書を取ってあったと思うんだが……」

「探し出してどうするんですか? 何かすれば間違いなく、ただじゃすまない
 んですよ、もう若くはないんだし……」

「若くないからってなんだ? 何もせずにこのまま、泣き寝入りしろって言う
 のか? 冗談じゃない!」

 一見落ち着いているように見えた前田が、

 いきなり振り返り飯島へと強く反応した。

 前田は必死になって、

 家中を引っ掻き回し履歴書を探し出そうとしていた。 

 そして飯島も、

 そんな前田の背中に向け、

 ずっと話し続けていたのであった。
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