第7章 – 土砂降り 〜 2010年 3月末(25)

文字数 692文字

 2010年 3月末(25)



 礼を、言うべきだろうか……そんなことを思ったのは、

 既に指定した場所へと近づきつつある時だった。

 唯の病室を出てから、既に、5時間は経過している。

 どうしてそんな時刻を指定したのか?
 
 今となってはまるで思い出せない。

 30分後という選択だろうと、きっと可能であったはずだ。

 午前中は晴れていたはずの空が、

 今にも降り出しそうに真っ暗になっている。

 そろそろ現れる時刻だった。

 順一は自分でも気づかぬうちに、

 ジャケットのポケットに両手を突っ込んでいた。

 なんとしても、弱々しい感じだけは見せたくない。

 虚勢でもなんでも張って、 

 現れる男へ恐怖心のひとつでも与えたいと思っていたのだ。

 その時ふと、差し入れた右手が硬い何かに触れる。

 その感触を掌に意識し、

 順一はすぐにそれがなんであるかを悟ることができていた。

 ――そうか……あの時……。

 退院する日、武に意味深な笑顔とともに渡され、

 そのままポケットへとしまい込んだのだ。

 その時と同じジャケットを、順一は今、身につけていたのであった。

 そうだ……あの夜のことを考えれば、俺には怖いものなどありようがない。

 緊張している己の心に、順一はそんな台詞を語りかける。

 ――雨か……?

 顔に当たった感触で、彼は降り出した雨に気がついた。

 そしてあっという間に、その雨足は土砂降りの様相を呈する。

 何千という矢が一気に降り注ぐかのように、

 多摩川の水面が水飛沫を上げた。

 順一は足を引き摺りながらも、慌てて橋桁の下へと移動する。

 そして水浸しとなった頭をかき上げながら、

 霞んで見える土手の方へと目をやった。
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