第9章 – 覚醒(2)

文字数 1,378文字

 覚醒(2)



 それは......随分昔の、ことだった。

 会社に就職して数年、彼は佐和子と付き合い始めたのを契機に、

 実家からそう遠くないアパートに住んでいたことがあったのだ。

 さらにその頃、彼は人生において、

 忘れることのできない経験をしていた。

 それはある種、彼の人生における負い目であり、

 そんなものを背負い込んだせいで、

 その後の人生が大きく変化していたのであった。

 ことの始まりは、順一がまだ28歳だった、1990年の年末のこと。

 彼はその日、佐和子がやってくるのを待っていた。

 ところが約束の時間を過ぎても、彼女は一向に現れない。

 もちろん携帯電話などない時代のことで、

 事故にでも遭ったのではないかと、彼は気が気ではなかったのだ。

 佐和子もまだ23歳という若さで、

 同じ商社に勤めるふたりが付き合い始めて、

 まもなく1年になろうかという頃だった。

「ごめんなさい……でも、わたしもそうかなって思っちゃって、だから本当
 に……ごめんなさい」
 
 23歳の佐和子はそう言って、それから口を開こうとはしなかった。

 そして、そのまま会社の休憩時間が終わり、

 彼女は自分の職場へと帰っていった。

「結婚しよう」

 そんな順一の言葉に、たった1週間前に大喜びしていた佐和子だった。
 
 彼女の両親へと挨拶をしに行く日、

 アパートに立ち寄ると言っていた佐和子は、

 とうとう最後まで姿を見せなかった。

 月曜日、やっとその理由を訊いた順一は、

 しばらく動くことができず、その場に立ち尽くしていたのである。

 佐和子の父親はずいぶん前から、

 調査会社に順一のことを調べさせていたらしいのだ。

 彼がいかに貧しい幼少期を過ごしてきたか、その母親である玲子が、

 片親であるがゆえ、どのような生業で生計を立てざるを得なかったか、

 全て知り尽くしていたのであった。

 きっとこれだけで、反対する理由には充分だったろう。

 しかし佐和子を納得させるには、

 さらに未来についての言及も、きっと必要だったに違いないのだ。

 順一の母玲子は、少ない睡眠時間と、

 その原因となる長時間労働によって、いつも日々疲れ果てていた。

 日に日に積み重なっていくストレスに、

 その脳はきっと、あっという間に限界に達した。

 順一が就職し、やっと楽ができるという頃から、

 彼女は徐々に壊れていった。

 そしてそんな変わりいく母親を、

 順一はしばらくの間、本気になって心配していなかったのだ。

 ――もう還暦に近いんだから、

 ――誰にだって、多少は呆けたようなところがあるもんさ……。

 などと思って、さしたる行動も取らずにいたのである。

 そしてある日、彼がひと月振りに実家へ姿を見せると、

 玲子がいきなり辛そうな声を出したのだった。

「ごめんね……お母さんできるだけ早く帰ってくるから、寂しいだろうけど頑
 張って、ちゃんとひとりで眠るんだよ……」
 
 それは小さい頃、毎日のように、順一が日々聞かされていた台詞であった。
 
「何言ってるんだよ母さん、母さんはもう、働きに行かなくたっていいんだ
 よ。それにスナックはもうとっくにつぶれてるじゃないか……」
 
 そんな台詞を順一は、何度も出掛けようとする母親に向かって、

 やはり唱え続けなければならなかった。

 そしてよくよく見れば家の中にも、

 すでにおかしな空間が広がっていたのである。
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