第3章 – 事情 ・ 2012年1月(5)

文字数 1,391文字

 2012年1月(5)



「病院には、行かれたんですか?」

「それがさ、まるで起きてこないんだぜ。きっと俺と顔を合わせたくないんだ
 ろうよ。まあ、思い当たることはあんだけどさ、だから行ってないと思う
 よ……なにせ、昨日の明け方だろうなあ……知らんうちに帰ってきて、それ
 からずっと寝っぱなしなんだから」

 ――昨日の明け方。

 一昨日の夜、確かに彼女は少しおかしかった……。

 そして前田はさらに、「思い当たることはある」と言葉にしたのである。
 
 飯島がそんなことに思いを巡らせていると、

 突然、前田の威勢のいい声が響き渡る。

「いらっしゃいませ!」

 前田の視線は、扉から覗き込む常連客の顔を見つめていた。

「あ、マスター久しぶり……あれ? 今日はママはいないの?」

「すいません、ちょっと具合悪くしてまして……でも料理もちょっとはいけま
 すよ、わたしも昔は作ってましたから」

「いや、いいや……今夜は止めとく……また今度にするよ」

 扉を開けたままだった常連の男は、そのまま踵を返し出て行ってしまう。
 
 そんな光景に、飯島と前田は不思議なほど自然に目が合い、

 思わず噴き出してしまうのだった。

 そして、ちょうど同じ頃、前田のいない家で、

 美穂子がひとり呆然と立ち尽くしていたのである。

 美穂子はついさっき、蒲団から起き出したばかりであった。
 
 36時間水以外口にしていないというのに、食欲はゼロ……それどころか、

 すぐまた激しい眠気が襲ってくるのだ。

 美穂子は身体中の痛みに耐えながら、洗面所にある鏡の前に立つ。
 
 想像していたにもかかわらず、

 鏡に映る己の姿に、

 呆然と見入ってしまっていたのであった。

 昨日の明け方、美穂子は帰ってすぐにシャワーを浴びた。

 身体を何度も何度も擦り、肌が赤くなるまで洗い続けてた。

 まさか、このような姿になろうとは、
 
 それまで、彼女はまるで気がつかなかった。
 
 そしてそのまま下着さえつけずに、ベッドへと潜り込んでいたのである。

 怖気が再び、舞い戻ってくるようだった。
 
 そして同時に、怒りの感情が新たに頭をもたげ、

 どうにも抑えが効かないほどに膨れ上がっていく。

「誰のせいで、こうなったんだ……」

 鏡に映る自分に向かって、美穂子は少しだけ力を込め、そう声にした。
 
 あまりに激しい怒りは、恐れや悔しさを消し去り……

 やがて狂気にも似た感情を生み出していった。

 どうすればいい?

 どうすれば一番……?
 
 そう問うた己への答えは、美穂子の中で瞬く間に見つかった。

 これで……思う存分、後悔すればいい……。

 きっとそうなるに違いないと感じて、

 彼女は少しだけ幸せな気分になれるのだった。

 今に見ていろ――そんな台詞を頭の中で、何度も何度も繰り返し呟いた。
 
 そして少しずつ、意識が薄れいくのを感じて、

 やっと呟くことの無意味さを知るのである。

 ふと、彼女の脳裏に、ずいぶん昔の懐かしい顔が浮かぶ。
 
 それはまだ彼女が中学の頃、前田が見せていた照れくさそうな顔だった。

 確かそれは、彼が美穂子を迎えに、

 施設へとやって来た時のものなのだ。
 
 美穂子はそんな顔を思い浮かべてやっと、己の行為の結実を知るのだった。

 ――さようなら……ごめんね……

 それが美穂子の最後の思念であった。
 
 そんな思念を誰一人として知ることなく、

 いつも通り......夜が更けていく......。
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