第3章 – 事情 ・ 2012年1月(4)

文字数 1,497文字

 2012年1月(4)



「そうか、だから辞めたのか……それは知らなかった」

「じゃあ、これって本当のことなんですか? それなら、他の人とも同じよう
 な関係を?」

「馬鹿なこと言わないでくれ……まさか60過ぎのパートにまで手は出さん
 さ」
 
 そんなことを言いながらも、

 前田はそれなりにショックを受けているようだった。

 店の従業員を、手当たり次第口説きまくる――こんな噂を以前、

 飯島も耳にしたことはあった。
 
 しかしまさか、そんなことがあるわけないと、
 
 すっかり忘れ去っていたことだった。

 パートだった斉藤裕子の退職は、まさに前田との関係を、

 断ち切るためだと由香は言っていた。
 
 斉藤裕子は離婚してひとり身であるとはいえ、

 前田には美穂子という内縁の妻がいる。
 
 そして何よりも、まだ小学生である息子に、前田とのことを知られたら……

 そんなことを思って、彼女はとうとう退職を決意したのであった。

「言ってくれればいいのに……でもまああれか、そんなこと聞いたって、バレ
 ないようにすりゃいいんだとか言って、別れようとはしなかったかも
 な……」

 前田は大きく溜息を吐き、カウンター越しに飯島の顔を見つめた。

「だから斉藤さんに、もう連絡を取るのはやめてくださいよ。もちろん、山田
 由香さんを誘うのもダメですからね……オーナーには美穂子さんって大事な
 人がいるんですから……」

 自分のことを棚に上げ、偉そうに何言っているんだと飯島は思った。
 
 しかし昨晩、彼は由香から強く頼まれたのだ。
 
 自分のことを誘うのも、もう止めるように伝えて欲しいと。

「そういえば、あんたを首にした時、由香が血相変えて怒ってなあ。記憶も失
 くしてたったひとり、どうやって生きていったらいいんだって、自分の身に
 なって考えてみろってさ。だからなんとかしろって、そうしたら付き合って
 やるって言いやがった。だから俺はその時分、ここにいた野郎の首を切っ
 て、あんたを雇ったってわけよ。あいつもともと客受けよくなかったし、最
 後の頃はさ、かなりいい加減な仕事振りだったから、まあ、ちょうど良かっ
 たんだけど……」

 前田はそこで大きく溜息を吐いてから、

「でも大嘘つき……彼女ぜんぜん付き合っちゃくれない。でも、それでもいい
 子なんだよなあ、由香ちゃんって、惜しいなあ……」

 まるで天井へと話しかけるように、前田は上を向いてそう呟くのだった。

 自分のために首になった、そんな男に飯島は、若干の申し訳なさを覚えた。
 
 しかし次の瞬間には、昨夜の由香のことを思い浮かべてしまうのである。

 ――飯島さん……大好き。
 
 甘く切ない……ほんの少しだけ掠れた声で、

 昨夜の由香はそう囁いていた。

「ま、それも仕方ねえか……」

 前田が突然吹っ切れたような声を出し、

 カウンターの中でごそごそと何事かを始める。

 時計の針はそろそろ17時を指そうとしていた。
 
 飯島は外の看板を点灯させ、室内の照明を少しだけ落とした。

 以前は19時からのオープンであったが、客層の変化と共に、

 営業時間を2時間前倒しにしたのだ。
 
 そして本来であれば、この時間のカウンターには美穂子がいて、

 さまざまな料理の匂いを漂わせているはずであった。

 しかし今日飯島が店に出向くと、

 美穂子の代わりに、なぜか前田が待っていた。

「なんだか具合が悪いんだってよ……昨日からぜんぜん起きてこないんだ。最
 近は俺のイビキがうるさいって寝室も別だから、実際どんな具合かよく分か
 らんのだが……」

 だから今夜だけ前田が、飲み物や簡単なつまみを作り、

 飯島は接客をメインに店を開けることにしたのだった。
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