第6章 – 決意 〜 2012年秋(4)

文字数 1,276文字

 2012年秋(4)



「でも、あの薫って人はきっと、あなたのことが、大好きなんだと思う……」

 由香はそう付け加えると、再び彼の目をじっと見つめた。

 そんな真っすぐな目に、飯島は次第に耐えられなくなっていく。

 そして......何も返さぬままに、その目を逸らしてしまうのだった。

「ずるいわよ、ずっと黙ってるなんて……わたしが諦めるまで、ずっとそうや
 って、黙っているつもりなんでしょ?」

 こう言ってきた由香には、まだ、飯島への未練のようなものが感じられた。
 
 しかしそんな訴えにも、飯島は視線さえ合わさず、

 黙ったまま口をへの字に結んでいる。

 次第に由香の顔は強張り、そして、フッと力が抜けたように、

 優しい顔つきへと変化するのだった。

「あなたにその気がないのなら、わたしがいくら頑張ったって仕方ないわ
 ね……」

 そう言って席を立った由香には、
 
 諦めの雰囲気と共に、若干の侮蔑の匂いさえ感じられる。
 
 そのまま出口へと行きかけ、
 
 ふと思い出したように一度だけ振り返った。

 そこで由香は、これまで見せたことのない冷たい顔つきを見せ、
 
 最後の言葉を付け加えるのであった。

「あなたって、なかなか自分から行動を起こさない人だものね……そんなあな
 たがこうしてるんだから、きっと、よっぽどのことなんだって思ってあげ
 る。でもね、仕方ないからなんて気持ちで、一緒にいてなんて欲しくなかっ
 たわ。もっと早く、きちんと言ってくれれば、よかったのに……」

 仕方ない。
 
 そんなことを、飯島は一度たりとも口にした覚えなどなかった。

 しかし言われてみれば、心の奥底にあったのは、

 いつもそんな感情だったのかも知れない。
 
 そして由香は最後に、治療だけはちゃんと受けて欲しいと言って、
 
 その姿を消し去っていたのである。

 喫茶店にひとり残された彼は、もし今、癌に冒されていなかったら、

 自分はいったい、どうしていたのだろうと考える。
 
 いつまでもずるずると、由香との関係を続けていたのであろうか?

「とってもお似合いだったのに……残念だわ」

 そんな薫の言葉が、なぜか頭に蘇った。

 薫はそう言って、ふたりの別れを嘆いてくれたのだ。

 由香と薫が出くわした日の夜、

 飯島は了解を求めるために、薫へと声を掛けていた。

 もしかすると、薫へも何か言ってくるかも知れないと、

 今回のことについて、話しをしていたのであった。

「何を言われたって、わたしはぜんぜん構いませんよ。でも、いいんです
 か? 本当にいい娘さんなのにもったいない……それに、わたしとのことが
 原因でだなんて、そんなこと言って、信じてくれるのかしら?」

 薫はそう言って、なんとも言えない顔を見せていた。

 ――もし、癌でなかったら。

 きっといつまでも自分は、仕方がないと思い続けていたのだろう。

 そしてそんな性分は、以前の自分と何も変わっていないに違いない。

 彼はそんな風に感じて、

 ――仕方がない……

 やはりそう思うしかなかった。

 記憶はまったく戻りはしないが、それ以外の本質的な部分では、

 きっと以前の自分そのままなのだ。
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