第9章 – 覚醒(3)

文字数 899文字

 覚醒(3)



「おい……嘘だろ?」

 目を丸くする順一の前には、冷蔵庫で冷やされる母親の財布があった。

「どうして、こんなにたくさん……?」

 呆れるほどに、同じ銘柄の醤油や味醂などが、

 台所の角っこを占領しかけている。

 もう......待ったなしであることが、

 その時やっと、順一にも理解できたのだった。

 彼は、母親へと尋ねてみるのだ。

 すると彼女は否定するわけでもなく、

「歳を取って呆けたんかねえ……ああやだやだ……」

 などと、笑いながらに言って返す。

 しかしその手で差し出された湯呑みには、

 お茶の葉がたくさん浮かんでいるのだ。

 ――茶漉しを使ってない……。

 そんなことさえできなくなっているのかと、

 彼はまさに大きなショックを受ける。

 そしてそんな彼の横では、

 玲子が唇に張りついた茶葉を、指先で懸命に取ろうとしているのだ。

 彼は次の日会社を休み、母親を近くの総合病院へと連れて行った。

 そして検査を受けさせた結果、

 玲子が認知症を患っていることを知るのである。

 しかしそれでも、普段の生活ができないほどではなかった。

 だから彼は、近所の親しい何人かへと母親のことを頼み込み、

 そのままひとり暮らしを続けることを選ぶのだった。

 それからは、週に一度実家に顔を出し、

 できるだけ母親と一緒の時間を過ごすようにした。

 その甲斐あってか、それ以降玲子の異常に思える行動は幾分影を潜める。

 そんな平穏な一時を過ごしている頃、

 彼は突然、ひとり暮らしをする意味を失ってしまう。

 結婚という覚悟を心に決めた途端、

 その相手であったはずの恋人を失ってしまうのだ。

 将来、おまえはあいつの母親の傍から離れられなくなる……そして、

 いずれはオムツだって換えてやることになるんだぞ。

 きっとそんな言葉によって、

 不幸せな未来を予言した佐和子の父親は、

 まんまと自分の思い描いた通りの結末を手にしていたのである。

 それから、佐和子の父親が言う未来に沿うかのように、

 とうとう徘徊じみた行動を取るようになった母親の元へ、

 彼はアパートを引き払い、戻っていった。

 それからの生活は彼にとって、想像以上に辛く厳しいものとなる。
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