第10章 – 認 知(15)

文字数 1,116文字

 認 知(15)
 


 ここに初めて入った時、

 なんとも言えない臭いに思わず顔をしかめていたことを思い出す。

 もともと匂いに敏感だったせいか、

 初めて経験するそんなものに、彼女は一瞬たじろいでいたのだ。

 それはきっと、長年の......さまざまな臭気が積み重なったもので、

 特定の何かを連想させるものではなかった。

 だから彼女はいつも、開店1時間前には入り口の扉を開けっ放しにして、

 裏口まで風を通すようにしていたのである。

「本当に行っちゃうのかい? このままここでやっていけばいいじゃない……
 それとも、他に何か理由があるの?」

「馬鹿なこと訊くのねえ……飯島さんがいなくなったからに決まってるじゃな
 い! ふたりがいい感じだったのに、あなた気がつかなかったの?」

「そんなこたあ分かってる! だけど戻ってくるかも知れないじゃねえか!? 
 たった4、5日だろう? ちょっと旅行に出てましたってことだってあるだ
 ろうが……」

「たかが旅行で店ほっぽり出して、それも黙ったまま行くような人だったか
 い? あの飯島さんは……ねえ、あんた……」

 そう言われた前田も、もちろんそんなことは百も承知であった。

 しかし本当に心の奥底から、

 戻ってくるかも知れない……いや、戻ってきて欲しい! 

 などと思っていたのだった。

 突然......電話で辞めると言ってきた薫に、

 店で話したいと伝えたのは美穂子の方であった。

「でも、佐久間さん、本当にいいの? ここにいれば、思い直して戻ってきた
 彼と、間違いなく会えるんだよ……」
 
 ――彼はもう二度と、ここには戻ってこないわ。
 
 薫は美穂子の言葉に感じた思念を、そのまま心の奥底へとしまい込む。

 そして、できる限り明るい顔で、

 ふたりへ感謝の気持ちを伝えるのであった。

 我が儘ばかりでと恐縮しながら、

 DV夫の雇った探偵が、再びアパートの前に現れたのだと打ち明ける。

「そうか、それじゃあ仕方ねえな。しかし飯島さんも本当に、どこへ消えちま
 ったんだかなあ……俺はさあ、あんたらふたりが一緒になってくれて、この
 店をずっとやってくれればって思ってたんだよ……なあ、美穂子」

「でも、これでいいキッカケができたじゃない。もうお終いにしろってことな
 のよ、きっとさ......」
 
 そう言う美穂子の目に、薄っすらと涙が浮かんでいる。

「そうか……そうだな、もうスナックって時代じゃないしな」

 そんなことを言う前田も、薫から視線を外し、

 両手で顔を撫で回し、鼻を啜るのだった。

 そんなふたりを見つめながら、薫は深々と頭を垂れる。

「本当に、ありがとうございました」

 目頭を押さえつつ、

 何かに追われるようにスナックを出て行った。
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