第8章 – 献身 〜 2012年11月(3)

文字数 1,114文字

 2012年11月(3)
 


 老人は、ここに入所できるまで、5年間も待たねばならなかった。

 いくつもの老人保健施設を巡り、ようやく入所期間に限りのない、

 この特別養護老人ホームへと入ることができたのだ。

 脳梗塞で左半身が不自由となり、

 1年間のリハビリもまるで効果が出なかった。

 そのせいで、彼は歩くことはおろか、

 ひとりで立ち上がることもできないまま......。

 だからトイレにも介助が必要で、

 今回も初めは、男性介護師が老人を見守っていたのである。

 ところが、通路に響き渡った泣き叫ぶ声に、

「ちょっと様子を見てきますから、終わってもちゃんと、そのまま座って、
 待っていてくださいよ」
 
 そう言って、彼はカーテンの外へと出て行ってしまう。

 老人も、しばらくはじっと待っていたのだ。

 しかし次第に、自分の存在が忘れ去られた不安に駆られ、

 ついには手摺りを掴み、なんとか立ち上がることに成功してしまった。

 もし万が一、その場に飯島が居合わせなかったなら、

 きっとただでは済まなかったであろう。

 しかしとにかく彼のおかげで、

 老人は一瞬の恐怖を味わっただけで済んでいた。

 一方、飯島はそうではなかった。

 彼は老人が感じた以上の恐れを、

 それから味わうことになってしまうのである。


                *


「ねえ、お願いだから、このまま病院に行って診てもらいましょうよ……」

「大丈夫だよ、今はもう、ほんのちょっと痛むくらいだから……」

 病院での検査を勧める薫に、飯島は玄関前でそう返してくるのだった。

 後頭部をもろに打ちつけ、しばらく意識を失っていた。

 しかし目を覚ました彼は、施設が手配した救急車にも乗らず、

 そのまま来た道へと返してしまう。

「どうしても救急車には乗りたくないんです。理由は、自分でもよく分からな
 い。でもきっと、過去の出来事に何か関係があるんでしょう……とにかく、
 見ているだけで、最悪の気分なんで……」

 そんな言葉で救急車を拒否した結果、

 ふたりはタクシーに乗り込み、さっきアパートへと帰り着いたのだった。

「少し疲れたから……ちょっと横になるんで……」

 だから昼食はいらないからと、

 彼は薫にそう告げ、部屋の中へと消えていた。

 薫は部屋に戻ってからも、ずっと気が気ではなかった。

 あれからしばらく、飯島の様子は明らかにどこか変だったのだ。

 施設を出てタクシーを拾うまでに、彼は何度も意味なく立ち止まっていた。

 そしてその度に、何もないはずの空間に目を向け、

 眉間に皺を寄せ、目をしばたたいていたのである。

 絶対、普通じゃない――そんな印象を十二分に感じて、

 薫は考えに考えを重ね、ある決心をするのだった。
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