第8章 – 献身 〜 2012年11月(4)

文字数 1,438文字

 2012年11月(4)



「飯島さん……起きてる?」

 そう言って、薫が玄関の扉を叩いたのは、

 既に午前零時になろうかという時だった。

 扉を開け、驚いた顔を見せる飯島に、

 薫は再び、さも辛そうな声を上げたのである。

「お願い……ちょっと持ってくれます?」

 そして彼の目の前に、寝具一式が収納袋ごと差し出される。

 とにかく彼はそれを受け取り、

 ワケも分からぬままに畳の上へと置きに行った。

「今晩ここに泊めてください。もちろん……襲ったりしませんから、わたしの
 方からはね……」
 
 そう言って笑う薫は、飯島のことが心配なのだと言うのである。

「だって気を失ったんですよ……今だって飯島さんの顔色は真っ青。だから、
 寝ている時に何かあったら大変じゃないですか?」
 
 しかし飯島は、相変わらず大丈夫の一点張りだった。

「それに、こんな時間にふたりっきりというのは、いくらなんでも、まずいで
 すよ……」
 
 彼はそう呟いたあと、安心したような笑顔を見せる。

 きっとこれで分かってくれると、飯島はそんな風に思ったのだろう。

 しかし彼のそんな見込みは、ものの見事に外れてしまうのだ。

「それなら、こっちは大丈夫です……わたし45歳なんですよ、もうここ何年
 も そんなことにはご無沙汰で、なんだったら、いくらでも受けてたちます
 から……」
 
 そんな冗談とも本気ともつかないことを言って、

 彼女はさっさと蒲団を敷いて横になってしまう。

 飯島は呆気に取られ、されど出て行けと言うわけにもいかず、

 ただただそんな様子を見守っていた。

 そして結果仕方なく、隣の部屋に蒲団を運び、

 薫の吐息を意識しながら横になった。

 確かに気を失ってから、彼はおかしな現象に悩まされていた。

 パッと目の前が光ったと思ったら、一瞬何も見えなくなる。

 そして真っ白になった視界が徐々に戻っていく間、

 どうにも頭がギリギリと痛むのだ。

 ただそんなことも、数分と続くことはなかった。

 ――大したことじゃない……。

 だからそんな確信を胸に、彼はすぐに眠りへと落ちていく。

 それからどのくらいの時間が経ったのか、

 ふと何かを感じて、飯島は目を覚ました。

 そして横になったまま、隣の部屋へと視線を移そうとする。

 しかしそこには、薫の姿などありはしなかった。

 その代わり、彼のすぐ隣に座蒲団を並べ敷いて、

 薫が横になり、眠っているのである。

 それは本当にすぐそばだった。

 ちょっと手を伸ばせば、薫の頬でさえ触れることができる。

 飯島は音を立てないように、その目を今一度天井へと向けた。

 きっとどんな異変も見逃すまいという、彼女なりの懸命さなのであろう。

 彼はそんな行為を、心からありがたいと感じるのだった。

 ――しかしいったい……どうしてここまで?

 それが恋心からのことだと思うほど、飯島も若くはないのである。

 ――きっと、助けられたと……思ってくれているんだ。

 そういえば探偵の一件以来、DV夫の話がまるで出なくなっていた。

 彼はそんなことを考えながら、再び薫へと目を向ける。

 すると豆電球だけの明かりで、薫の頬が薄っすらと赤らんで見えた。

 完全に化粧を落とし切った顔は、

 スナックで働いている時とは別人のようだった。

 彼はその時、不思議なほどの充足感に満たされる。

 それが何によるものなのかは分からなかったが、

 とにかく、落ち着いた気持ちに包まれたまま、

 再び眠りに就こうとするのだった。

 そしてそんな静かなひと時に、それはいきなり襲ってきた。
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