第3章 – 事情 ・ 2012年1月(3)

文字数 1,547文字

 2012年1月(3)



「良かったあ! 会えて……飯島さん! 今夜、お店休みでしたっけ?」

 自転車を押しながら近づき、
 
 由香はそう言って、不可解だと言わんばかりの顔を見せた。

 飯島がスナックへと移ってから、

 由香は月に二、三度店に顔を見せるようになっていた。
 
 そんな彼女は今夜、弁当屋の送別会終わりで、

 既に店へと立ち寄っていたらしい。
 
 しかし看板のライトは消え、

 きっと美穂子が既に、扉に鍵を掛けたあとだったのだ。

「少し相談に乗ってもらいたいことがあって、ちょっと寄ってみたんですけ
 ど……」
 
 もしかしたら追いつけるかと、

 由香は自転車を飛ばして来たのだと言った。
 
 さらにこれから、飯島に少しだけ付き合って欲しいなどと言う。

「いや構わないけど……この時間、喫茶店とか開いてるかな?」

「別に喫茶店じゃなくてもいいですよ、女の子のいるような店は嫌だけど……
 居酒屋とかでも全然わたし、平気ですから……」

 そう言って由香は、通りで光り輝くネオンへと目を向ける。
 
 本当のところ、飯島は居酒屋のような若者の集まる店は避けたかった。

 弁当屋に勤めていた頃、何度かそんな店で飲んだことがあった。
 
 そしてそんな時に必ず、若者たちの上げる嬌声を耳にして、

 なんとも不快な印象を持ったのである。

 話の内容が聞こえてくるわけではなかった。
 
 若者たちがただただきゃあきゃあ騒いでいる姿に、

 なぜか無性に腹立たしさを覚えていたのだ。

 どうして......あんなに腹が立ったんだろうか? 
 
 その理由は、いくら考えても分からなかったが、

 とにかくそんな気持ちが顔にも出ていたのだろう。

 突然、由香が思い出したように、

「でも飯島さん、居酒屋とか嫌いでしたよね……」

 などと言ってきたのだ。

 そんな話を、したことがあったか? 

 しかし知っているのだから口にはしているのだろう。

 そんなことを頭の片隅で考えていると、

「じゃあ、うちに来ません? わたし最近ひとり暮らし始めたんです。だから
 一度ご招待しようと思ってたんだ……ちょうどいい!」

 なんてことを言い出すのだった。

 普段であれば、そんな誘いなどに乗らない自信はあった。

 しかし今夜の飯島は、酒に酔っていたこと以上に、

 美穂子からの誘惑の余韻を身体中に残していたのだ。

 行ってはダメだ――そんな心の声に、

 飯島はなんとか断りの言葉を発しようとする。

 しかし由香はさっさと手にしたワイヤーキイで、

 自転車をガードレールへと括り付けてしまった。

 そして通りかかったタクシーに手を上げ、

 停まった車にさっさと乗り込んでしまうのだった。

「自転車はどうするんだ!?

「明日の朝、取りに来るからだいじょうぶで~す!」

「俺は行くなんて言ってないぞ!?」

「なに言ってるんですか? 早くしてください!運転手さんに怒られます
 よ!」
 
 そう言って飯島へと手招きを見せるのである。

 ここで乗り込んでしまえば、間違いなく後戻りは利かなくなる。
 
 もちろん彼女にそんな気がない可能性だってあった。
 
 しかしそうであればなおさらなのだ。

 このまま背を向けて歩き出す。

 きっとそれが正解なんだと思いながらも、

 飯島は心の隅でまた別の声を囁くのだった。

 そんな気にならなければいい……

 相談に乗って、それだけで帰ればいいんだ――そうして結局、

 彼は由香の隣でタクシーに揺られ、

 十数分後には由香のアパートにいたのである。

「斉藤裕子さんって知っていますよね? 今夜、彼女の送別会だったんで
 す……」

 そう由香が語り始めるのは、

 飯島が部屋に入って1時間ほどが経過した頃。

「彼女、本当は辞めたくなんかなかったのに……」

 そんな由香の発する声と吐息を、
 
 飯島は己の胸の上で感じていたのであった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み