第9章 – 覚醒(13)

文字数 994文字

 覚醒(13)
 


 お父さんが......。

 着信を告げる音を聞きながら、

 何度かそんな言葉が、彼の脳裏を駆け巡る。

 しかし実際に口を吐いて出た言葉は、まったく別のものだった。

「お母さんが、自分でお腹にナイフを突き刺しちゃった! 血がたくさん出て
 るんだ! 救急車呼ぶんだけど、おじいちゃんの病院でいいよね!?

 そう告げて電話を切ったあと、彼は慌てて救急車を呼んだ。

 そしてセーターを脱いで母親の傷口へと押し当て、

 辺りにキョロキョロと目を向ける。

 やがて視線に飛び込んできたものを、彼は咄嗟に拾い上げた。

 その場で指紋をさっさと拭き取り、

 無意識のままポケットへとしまい込む。

 その時、彼の心を支配していたものとは、

 母親の無事を祈る気持ちと同様に、

 父親も守りたいと願う、信念のようなものであった。

 だから彼は、母親が真実を言い出さないことを祈り、

 折り畳みナイフは佐和子自身が握っていたんだと、

 心からそう思おうとしたのである。

 救急車が病院に到着した時、

 やはり病院の玄関に、何人もの看護師が待ち構えていた。

 そしてストレッチャーで運ばれていく間に、

 次々とさまざまな対処への段取りが決まっていく。

 あっという間に、佐和子の手術は始まるのだった。

 そこで初めて、武は唯の病室へと足を運び、

 そこまでの出来事を報告したのである。

 それから数時間、知らぬ間に現れていた武彦や和子、そして姉弟ふたりも、

 手術室の前では一切無言であった。

 それから2時間ほどしてやっと、

 4人が幾度も見つめ返していた手術中のランプが消える。

 手術室の扉が開き、ストレッチャーに乗せられた佐和子が現れ、

 その後ろにいる医師へと武彦が真っ先に近づいていった。

 一方、和子と武も立ち上がり、佐和子のもとへと走り寄る。

 しかし唯だけはそんな様子を、ただじっと見守っていた。

 そして医師がどこかへと行きかけると、そこでやっと立ち上がり、

 その後をこっそりと付いていく。

「あの……先生……」

 そう声を掛けたのは、角を曲がって誰もいない廊下でだった。

「やあ、お母さん大変だったね、でもきっと助かるから、元気出してくれ
 よ……」
 
 唯の担当でもあったその外科医は、

 武彦の後継者とも称される名医なのだそうだ。

 お母さん――その言葉は、なぜか声にはならなかった。

 唯はじっと男の目を見つめ、心の中だけでそう呟いたのである。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み