第10章 – 認 知(12)

文字数 837文字

 認 知(12)



 就職してからも、暇さえあれば本を読みまくっていた順一は、

 新入社員だった佐和子から、ある日突然声を掛けられていた。

「岩井さん、お昼、行かないんですか?」

「あ、そうなんだ……っていうか、どうしても今、この本の続きが読みたくな
 ってね」
 
 そんな風に答える順一に、佐和子はなんと、読んでみたいと言ってくる。

 まだ、会話らしい会話さえしたことのない佐和子は、

 そう言って飛びっきりの笑顔を残し、

 待っている女性陣の元へと戻っていった。

 そんな物怖じしないタイプだった佐和子へ、

 順一は次の日に、その小説を貸し与えていたのである。

 広瀬正著『マイナスゼロ』

 確か順一が20歳の頃、待ちに待った文庫本が集英社から出版された。

 ある約束の地で主人公が、18年間の記憶を持たない少女と出会う。

 なんと少女は、東京大空襲の最中からタイムスリップして来ていたのだ。

 そのことで主人公は、見事時空の狭間に翻弄されることになるという、

 まさに日本のタイムトラベル小説の最高峰だった。

 彼は学食2日分の昼食代を削って、その本代を得ていたのであった。

 それから何度も読み返し、ストーリーは嫌というほど頭に入っている。

 さらにその頃の給料では、母親との生活を維持するのが精一杯で、

 とても日々、外食などできる状態ではなかった。

 だからといって、

「昼飯代を浮かせるために……本を読んでいるんだ」などと、

 可愛らしい佐和子へ言えるはずもない。

 それでもあの頃はまだ、夢も希望もたくさんあった。

 そんなことを漠然と思い、彼はその本を手に立ち上がる。

 すると積み上げられた本の中に、

 明らかに文庫本とは異なる1冊が目に入る。

 特別なもので......あるはずがない。

 そう思いながらも、なぜかそれを無視することができなかった。

 そっとその1冊を掴み上げる。

 それは不思議なほど重みがあり、題名も作者名も印字されていない。

 ゆっくりと開いた最初のページを見て、

 彼の心臓の鼓動は一気に高鳴った。
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