第10章 – 認 知(19)

文字数 970文字

 認 知(19)



 それから3日目の朝、薫はまるで寝ていただけのような目覚めを見せる。

 目を覚まし、たまたま居合わせた看護師に向かって、

 薫は一言だけ尋ねていた。

 それは不思議なほどに自然で、それでいてまさに、

 普通ではない事実を知らしめるものだった。

「わたしのこと……どこの誰だか、あなたはご存知です?」

 もちろん、そう質問する薫本人が、

 答えるべき正解を持ち合わせていなかった。

 連絡を受けやってきた前田夫婦へも、

 薫はまるで見覚えがない......と告げる。

「すみません、ずいぶんお世話になったんですね」

 それからこれまでの経緯を聞いて、彼女は深々と頭を垂れるのだった。

 わたしはいったい、どうしちゃったんだろう? 

 そんなことをふと思っても、

 そんな疑問は、なんと10数秒で消え去ってしまう。

 不思議なことだったが、記憶を失っただけではなく、

 新しく手に入れた情報さえも、そう長く記憶していられないのだ。

 そんなことは、これからもずっと続くのか?

 何かの拍子に消え去ってしまうのか?

 医者もまったく分からないのだと言った。

「参ったね、あれじゃ飯島さんのことだって忘れちゃってるね、きっと……」
 
 病室を出るなり、前田が小さな声でそう囁いた。

「施設しかないか……」

「何言ってるの? 記憶がないだけなのよ、それがどうして施設なんかになっ
 ちゃうのよ!」

「でも、退院してすぐアパートでひとり暮らし? そりゃ大変じゃないか?」
 
 そう言って前田は、しばし考え込むような素振りを見せる。

 そしていきなり顔を上げ、少しはにかむような顔で声にした。

「そうだ……しばらく家に来てもらうか? どうだ? それなら安心だろ?」

「邪なこと考えて言ってるんじゃないでしょうね!? ちょっとあんた!」

「違う! 違うって……違いますよ!」

 そんな会話は、ふたりがエレベーターに乗り込むところで終わっていた。

 しかし美穂子もしばらくならば、反対しようなどとは思わない。

 ところがそうはならないのだ。

 それからさらに3日目の午後、彼女の病室の扉をノックする男がひとり。

 その男の出現によって、

 ふたりの善意は見事、実行されずに終わってしまう。

「どうぞ……」

 薫の声が静かに響き渡って、

 そしてゆっくりと開く扉の向こうから、

 やはり知らない男の顔が覗いているのであった。
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