第11章 – 2月某日(6)

文字数 758文字

 2月某日(6)



 佐和子はもちろん、スナックなどで働いたことなどなかった。

 酔っ払いの相手など、これまで想像したことさえない。

 しかしそれでも45歳という年齢は、

 多少のことには順応できると思い知る。

 そしてそんな生活が3ヶ月に及ぼうとしていた頃、

 彼女にとって、まさに幸いとなる出来事が起きる。

 ある朝アパートの前で、不審な男に出くわしたのだ。

 薫は自ら男へと近づき、いきなり声を掛けたのだった。

「あの……野村武彦の娘をお探しなら、わたしがそうですけど?」

 ビシッと決めたサラリーマン風の男は、

 さすがにあたふたするような様子はないまま、

 ただ、なんのことだか分からぬといった顔だけを見せる。

「わたしの方から、山貫さんに電話入れておきますから、正直におっしゃって
 ください」
 
 しかしそんな台詞を聞いた途端、男は一気に破顔する。

 山貫というのは、随分前から家に顔を見せていた、

 いわゆる調査会社の社員であった。

 父、武彦は昔から、そんな会社をちょくちょく使っていたのである。

 それは大半が病院絡みのことであったが、

 ごくまれに、娘の結婚相手を調査することなどにも使っていた。

 今やその山貫という男は、武彦のお陰もあろうが、

 興信所の取締役にまで出世していたのだ。

 結局、その後すぐに、男はすべてを佐和子へ話した。

 きっと既に施設で、認知症という坂を転がり落ちている武彦よりも、

 その娘の言葉の方を重く見たのであろう。

「山貫さんも、仕方ないって感じでしたから……」

 施設から呼びつけられた山貫という男は、

 娘がまるで顔を見せないと怒る武彦の依頼を、

 どうしても断ることができなかった。

 ――どこにいようと探し出し、すぐにでもここへ連れてくること。

 彼は長年の付き合いを思って、

 1回だけ、そんな依頼を受けたのだった。
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