第8章 – 献身 〜 2012年11月。

文字数 1,459文字

 2012年11月。



「あなたにその気がないのなら……わたしがいくら頑張ったって、仕方ないわ
 ね......」

 それがふたりの関係における、彼女の最後の言葉であった。

 そして、

「もっと早く……言ってくれればよかったのに……」

 振り返りそう呟いた言葉は、既に他人を見つめ、話していたのである。

 その日から、由香はスナックへは一度も現れてはいない。

 街中で一度だけ見かけたが、あえて声を掛けようとはしなかった。

 一方、薫との関係には、ずいぶんと変化が現れている。

「とってもお似合いだったのに……残念だわ……」

 薫は初めはそんなことを言って、ふたりの別れを嘆いていたのだ。

 しかし今では、そんな気持ちが嘘であったかというくらいに、

 彼女はいつでも、飯島のすぐそばにいた。

 しばらくはそれまで同様、夕食の惣菜を届けてくれたり、

 ごくたまに買い物を共にする程度だった。

 それが大きく変化したのは、

 そろそろ辺りの景色が、秋から冬へと変わりつつある頃。

 閉店したスナックで、飯島は酷い胃の痛みに襲われたことがあった。

 この頃は薬のお陰で血を吐くことがない分、

 胃の痛む回数がどんどん増えていた。

 そしてある夜、店で脂汗を浮かべ、唸っている飯島を、

 一度は帰ったはずの薫が偶然見かけてしまう。

 そして根掘り葉掘り尋ねる彼女に、

 彼は胃炎であるとだけ告げていたのである。

 それからだった。

 その頃から薫の行動が、劇的な変化を見せ始める。

 きっと彼女はどこかの段階で、

 胃炎どころではない印象を持ったのかも知れない。

 そんなことを飯島が感じるほどに、

 薫の態度はいつ日からか、献身的なものへと変わっていくのだった。

「どうせひとり分もふたり分も、作る手間はそう変わらないんですよ……かえ
 ってふたり分の方が、料理によっては作りやすかったりするんですから」
 
 そんなことを言って、

 基本、朝食と昼食のほとんどを、彼女は持ち込んで来るようになる。

 いくら申し訳ないからと断っても、

 薫は頑として首を縦に振らないのだった。

「わたし両親のことでいろいろあって……そのせいで結構、健康オタクなんで
 す。でね、飯島さんみたいな人見てると、もう、黙っていられないんです
 よ」
 
 そう言って彼女は、店からの帰宅後は何も食べるなとか、

 休みの日くらいは半身浴をしろ......などと言ってくる。

 初めはさすがに、鬱陶しく感じたりもしたのだ。

 しかしそんなことが実際、本当に困るのかと問われるなら、

 必ずしもそうでないことの方が多かった。

 とにかく食費ほか実費だけは渡し、いつかは飽きてくれるだろうと、

 彼女の助言に素直に従った。

 スナックが終わると、飯島は薫に促されるようにアパートまで帰ってくる。

 そして腹の虫をなだめつつ、夜1時には寝てしまうのだ。

 以前であれば、明け方近くまで起きていたものだった。

 しかし最近はそうしたくても、襲い来る睡魔に到底逆らえない。

 これまでであれば、昼頃になってやっと起き出す飯島が、

 今は毎朝7時に起こされる。

 さらにそれから、優に1時間を超えるウォーキングに付き合わされるのだ。

 その日が週1の休みであれば、

 そんなことが午前中一杯に及ぶことだってあった。

 毎日の食事も和食中心へと変わり、飯島は自分でも驚くほど、

 日々体調が良くなっているように感じるのだった。

 もちろんそんなことで、癌までが消え去るわけではないのだ。

 しかし残された死までの時間が、確実に延びているという印象を、

 彼は持つことくらいはできたのである。
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