第7章 – 土砂降り 〜 2010年 3月末(5)

文字数 911文字

 2010年 3月末(5)



「本人は、自転車にぶつかったとだけ言っていたそうです。ただ衝撃の強さか
 ら言って、もしかしたらバイクだったのかも知れませんね……その時に、頭
 もどこかに打ちつけたのでしょう。出血は後頭部と大腿部の切り傷からなん
 ですが、ただそれとは別に、時間差のある打撲の痕もあるんです。おそらく
 ここひと月ふた月くらいのことだと思うのですが、それがですね......結構な
 箇所に及んでいるんで……」

 そこで医者はチラッと、順一の方へと視線を向ける。
 
 そして不思議なほど大袈裟なジェスチャーと共に、

「お父さん、少しだけこちらによろしいですか?」

 と言って、右手を空中へと伸ばし、扉の方へと指し向けるのであった。
 
 何を話そうというのか? 
 
 いずれにせよ、今の唯に関わることに違いないのだ。

 あえて......みんなの前でのことを避けるというのは、
 
 何かよほど、言い難いことでもあるのだろう。

 ――どうして俺なんだ? 
 
 それなら普通は母親にだろうと、順一は思わず佐和子の顔を見てしまう。

 しかし佐和子は何も感じていないらしく、

 そんな視線に気づきもしないのであった。

 順一はさらに声を掛けようとするが、佐和子は和子に耳元で何か言われ、

 苦々しい顔つきと共に首を振っている。

 きっと打撲の痕のことを聞かれて、
 
 知るはずがないとでも答えているのだろう。

 医者は既に部屋の入り口辺りで、
 
 順一が来るのを今か今かと待っているのだ。
 
 順一は仕方なく、ゆっくりと彼の傍へと近づいていった。

 そこで医者は、どうしてそこまでというくらいに、

 順一の耳元へと顔を近づけ、

 まるで声を失ったような感じで語りかけてくるのであった。

 本当に、不思議だった。

 どうして......自分にだけに知らせようとしたのか。

 赤の他人である医者の立場であれば、なんのためらいもなく、

 話し聞かせればいいはずだろうと、

 聞いてしまってから心に強く思ったのである。

 そしてこの時、義父がこの場にいなかったことをも、

 心から神に感謝したい気持ちになっていた。

 ――唯さんは妊娠していました。

 ――残念ながら……もう流れてしまいましたが……。
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