第10章 – 認 知(6)

文字数 1,137文字

 認 知(6)



 順一の消息は不明のまま、佐和子の退院から3ヶ月が経った。

 彼女の傷はもう完全に癒え、本来であれば今頃、

 子供ふたりと一緒に暮らしているはずだった。

 ところがその少し前、まさに佐和子にとって衝撃の事実が発覚する。

 それはまさに、そんなことが決定的になった日のことだった。

 普段であれば、完全に寝静まっている深夜にもかかわらず、

 リビングの照明が煌々と辺りを照らしていた。

 武彦が中央に置かれたソファへと深々と座り、

 その真正面には、真剣な顔を見せる佐和子が仁王立ちで対峙している。

 そしてさっきから、佐和子の声だけが響き渡っていたのである。

「普段から、お母さんの顔なんて見てないんでしょう!? 最後に見たのはいつ
 のこと? 5年前? それとも10年前? もしかしたらずっと今まで、ち
 ゃんと面と向かって、見ようとなんてしたことがないんだわ!」

「馬鹿なこと、言うんじゃない……」

「馬鹿なこと? 馬鹿なことなんて言ってないわ! じゃあまた伺いますけ
 ど、どうして気がつかなかったの? あんなになるまで……見てたのなら気
 がつくはずでしょ? わたしはすぐに分かったわ! 絶対にどこか病気なん
 だって。でも、わたしがいくら言っても生返事だけで、どうして医者のくせ
 に放っておけたのよ! そっちの方が、よっぽど馬鹿なことじゃない!」

 佐和子は実家で暮らし始めてすぐに、母和子の異変に気がついていた。

 そのことを何度か、直接武彦にも伝えていたのである。

「あんなに辛そうな顔してるのに……お父さんは自分の世界さえ守れれば、あ
 とは誰がどうなろうと構わないんでしょ!」

 顔が妙に黒ずみ、時折腹を抱えうずくまる和子に、

 佐和子は何度も医者に行くように勧めていたのだった。

「お母さんは言ってたわよ! お父さんが困るからって、お父さんが海外出張
 に行く時に検査を受けるって……きっとね、分かってたのよ! 何日か入院
 なんてことになるかも知れないって! そのくらい体調が悪かったのよ! 
 お母さんはずっと前から!」
 
 ねえ! 分かってるの!? ――うな垂れる父親に向かって、

 佐和子はそんな顔つきを見せ、

 殴りかかりたい衝動を必死に抑えていたのだ。

 それはたった3日前、いつもとなんら変わらぬ早朝のことであった。

 ダイニングテーブルを前にして、

 武彦はいつものように新聞を読んでいた。

「おい、何をやってる! 静かにせんか!」

 いきなり響いた物音に、彼はいつもと同じようにそんな声を発した。

 まったく騒々しい――そんなことだけを思って、

 広げた新聞の反対側で、

 連れ合いに起きていた事実に気づきもしない。

 それから数分間、彼はなんの疑いも持たず、

 いつもと同じ朝を満喫していたのだった。
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