第4章 – 現れた女(3)

文字数 1,115文字

 現れた女(3)



 薫がまだ、店内にいることを飯島が知ったのは、

 その本人の声によってであった。

 酔った客に手首を掴まれ、薫はかなりの大声を上げたのだ。

 その日は、一見の男性客がほとんどで、

 その後も何度か似たようなことが起きる。
 
 手を握っていた客が帰り際、

 さらに薫の尻をねちっこく撫で回していったのだ。

 薫は一瞬、驚いた顔を見せはしたが、

 それでも声を出すのだけは踏み止まる。 

 しかしその顔には、この瞬間の感情全てが滲み出てしまうのだった。

 なんて破廉恥なことを! 
 
 まさにそんな印象の顔つきを、その客へと向けていたのである。

「もちろん今夜の場合は、逆にこっちが謝らなければいけないと思っていま
 す。でも、正式に働くとなればそうはいかない。お尻やら胸やらを、触られ
 て何ぼってところもあるんですよ……こういうところってのは……」

 実際このスナックは既に、その手の客は滅多に来なくなっていた。

 ところがその夜は、近所であった祭りのせいで、

 たまたま一見の客が一気に流れ込んで来ていたのだ。

 しかしどうあれ、酔った客を相手にすることに違いはない。

 多少のことには「仕方がない」と、

 笑って返せるようでなければ勤まらないのだ。

 だから彼は諦めた方がいいと、最後通告のつもりでそう告げたのだった。

 ところがそれから、薫が堰を切ったように語り出した話で、

 飯島はそんな通告を見事撤回することとなる。

 佐久間薫はやはり、つい先週まで、

 そこそこに裕福な家庭の主婦であったらしい。

 ところが銀行に勤める亭主はかなりの暴力夫で、

 ある夜とうとう大酒を飲み、

 包丁を振り回すところにまで行き着いてしまう。

 まさに身の危険を感じた彼女は明け方、

 自分名義の通帳だけを手にして、この街へ逃げてきたと言うのである。

 彼女の知り合いが、以前この街にいたのだそうだ。

 しかし既にその人物は引っ越しており、途方に暮れて歩いている時、

 このスナックの前を通りかかったということだった。

「きっと彼は探偵社とかを使って、わたしの行方を調べると思うんです。だか
 ら……」

 そこで一瞬の静寂があり、

 ――きちんとしたところには、勤めるわけにはいかない。

 そんなようなことを、彼女は言い難そうに続けたのであった。
 
 そして以前から実家へと避難させていた息子のために、

 少しでも仕送りをしたいのだと言う。

「息子にも、ここにいることは一切伝えていません。もしそんなことが夫に知
 れれば、息子にも何をするか分からないような人なんです」

 実家と言っても、今はもう年老いた母親がひとりいるだけらしい。
 
 そんな話を聞いてしまって、

 飯島はとても無視することなどできなかった。
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