第3章 – 事情 ・ 2012年1月(10)

文字数 1,372文字

 2012年1月(10)
 


 美穂子は長い間施設の中で、前田に一種、守られて暮らしていたのだ。

 ところがそんな環境が、彼が出て行ったことで一気に変わってしまう。

 そんな中、施設内で起きたたった一度のレイプ騒動で、

 美穂子は不幸にも妊娠してしまうのだった。

 しかし当然、病院などに行けるわけもなく、

 彼女は自ら子供を堕ろす決心をする。

 そしてそれを実行に移した代償に、

 二度と子供が産めない身体になっていた。

 彼女が何をどのようにして我が子の命を奪い去ったか、

 前田はそんなことを言いかける美穂子から、

 慌てて逃げ出していたのである。

 その後前田は、美穂子が回復しても、

 スナックはしばらく休ませると言った。

 そして飯島に、できるなら誰か雇って、

 このまま店を続けて欲しいと頭を下げる。

「あいつもずっと働き尽くめだったしさ、しばらく休ませようと思うんだ。で
 も、店はせっかく客もついてるしもったいないだろ? だから、もし続けて
 やってくれるならありがたいんだ。いずれさ、もしあいつが望んだら、やら
 せてやるってこともできるだろうし……」

 前田のそんな言葉に、彼は喜んで店を引き受けることにするのであった。
 
 早速、スナックの扉にアルバイト募集の紙を貼る。

 しかし若いチャラチャラしたのを欲してはいなかった。

 だから募集条件の中に、

「料理が大好きで、かつ調理師免許取得者」という一言を入れていたのだ。

 あれから2週間して美穂子は退院し、自宅での療養生活を続けている。

 それから前田は、美穂子の傍を片時も離れないのだそうだ。

 だから弁当屋で必要になる雑事についても、

「わざわざこっちから、社長んちまで行かなきゃならないんだから……もう 
 ね、こっちは大変なの!」

 と、由香はそんな風に言いながらも、

「なんかいい雰囲気でしたよ、あのふたり……今度こそ籍入れるんじゃないか
 な?」

 などと目を細めながら、飯島を見つめて言うのであった。

 そんな時飯島は、ついつい意味もなく視線を逸らしてしまうのだ。

 もちろんこれまで由香の方から、

 結婚を匂わされたことなどありはしない。 

 しかし最近では、由香に真剣な顔して見つめられるだけで、

 彼は何か後ろめたい気持ちになるのである。

 ふたりの身体の関係は、あの夜の一度きりだった。

 だからなのだろう……ふたりっきりで部屋にいる時など、

 どうして?――と、不安げな顔を見せる由香がたまにいる。

 しかし一般的に見れば、

 ふたりはまさに、「付き合っている」という関係だった。

 週に何度かであったが、

 夕方(弁当屋が遅番の場合はそれが8時頃)になると、

 いかにも嬉しそうな顔つきで由香がスナックへと現れる。
 
 そして、バイトが見つかるまでだからといって、

 甲斐甲斐しく店の手伝いを始めるのだ。

 そんなことがない日もほとんどの場合には、

 飯島のアパートはきれいに掃除され、

 いくつもの惣菜が冷蔵庫へと入れられていた。

 自分の本当の年齢も分からぬ中年が、

 恐らくは20歳どころではない年齢差の女性とこうなっている。
 
 それが悪いことだと決めつけているわけではないが、

 今一歩踏み出す勇気が湧いてはこないのだ。

 自分は、もしかしたら妻帯者かも知れない。
 
 それ以上に、犯罪者である可能性だってあると、

 飯島は心から思っていたのだった。
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