第3章 – 事情 ・ 2012年1月(9)

文字数 1,530文字

 2012年1月(9)



「あいつがどんなだったか、あんたも見てるだろう!? 暴力には暴力しかない
 んだ。それに、法に訴えたりしてみろ……逆に辛い思いするのは美穂子の方
 なんだ!」

「でも、彼女は言っていましたよ……必死になって、あなたを止めてくれっ
 て」

「はいそうですかって、俺が言うと思うか!? 俺は絶対に許さねえ……絶対に
 だ!」

 そう告げる前田の形相は、まさにその言葉通り鬼のように見えた。

「前田さん! 彼女はそんな仕返しを望んでません!前田さんは自分の気持ち
 しか考えてないじゃないですか!? そもそもそいつの首を切ったのだって、
 由香さんとのことがあったからなんでしょう? それで僕は助かったっての
 も事実ですが、とにかくキッカケは、前田さんが撒いたようなものなんで
 す! だからお願いです!やり返すなんてこと止めてください!」

「馬鹿なこと言うな! キッカケがどうあれ、あんなことされて黙ってろって
 言うのか? 首を切られたやつってのは、あんなことをしてもいいって言う
 のかよ!」

 そう言い返したあと、前田は再び背中を見せた。
 
 しかし手を動かすわけでもなく、

 ただじっと......何もない空間を見つめている。
 
 そんな前田に向かって、飯島はあの夜、

 美穂子がふと漏らしていた話を思い出し、

 静かに、語りかけていくのであった。

「彼女の気持ちを考えてください。これであなたが何かして、警察に捕まって
 ごらんなさい」

 ――喧嘩して警察沙汰になっちゃうと、保護者がいるわけでもないから、
   何日も何日も帰れない……そんな晩によく思ったの、
   ああ、わたしは本当に、ひとりぼっちなんだって。

「こんな状態でまた、ひとりぼっちになってしまうんですよ! それに、彼女
 がさっき病院で言っていたんです。ちょっと浮気したくらいに思って欲しい
 って、たまたま浮気した相手が、運悪くヤクザだったって、そう思って欲し
 いんだって、言ってましたよ、それに……」

 飯島はそこで一瞬の躊躇を見せ、前田への視線を外した。
 
 そして小さく深呼吸をすると、

 再び前田の背中に向け、短い言葉を投げかける。

「それに……子供ができる心配はないから……安心しろって……」

 そんな言葉に、前田はかなりの衝撃を受けたようだった。

 あらぬ方を向いていた顔が下を向き、

 何やらくぐもった声が聞こえてくる。 
 
 しかし、何を呟いているのかは分からないのだ。

 やがて肩が震え出し、前田の口元から嗚咽が漏れ始める。

 結局前田は、繁田の跡を追うことを止めた。
 
 ふたりはそのまま病院に戻り、

 美穂子は前田の顔を見るなりわんわん声を上げて泣いたのである。

 美穂子は子供ができない身体であった。
 
 それがどうしてなのかは、

 実のところ、前田もつい先日聞かされたばかりだった。

 とにかくそんなことが主因となって、

 ふたりは長い間、正式な夫婦にならずに来ていたらしい。

 いい人ができたら、いつでもその人と結婚しちゃってくれていいから......

 美穂子はずっと、前田へとそんなことを言い続けていた。

 ところが3日前のあの日、前田がとうとう籍を入れようと言い出した。

 しかしどうしても首を縦に振ろうとしない美穂子に、

 前田は完全に我を失っていたのである。

「どうしてできなくなったんだよ!? 生まれつきか? それとも俺が知らない
 うちに、子供でも堕ろしてそうなっちまったのか!?

 その時、前田がこれまで絶対口にしてこなかった思いが、

 次から次へと言葉となった。

 その結果、彼に伝えられた美穂子の真実……それを聞いたあと彼は、

 ただ黙って家から姿を消していたのである。

 そして......

 その日の夜、

 事件は起こった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み