第7章 – 土砂降り 〜 2010年 3月末(12)

文字数 1,789文字

 2010年 3月末(12)



「殺せ」

 そんな声が、聞こえた気がした。

 それは、誰かが自分に向けて言ったのか、
 
 果たして己の声だったのか、
 
 しばらく考えていたが、まるでそこんところは分からなかった。

 また、足音が聞こえる。

 明らかにスニーカーなどではない、
 
 革靴がコンクリートの上を歩く音だった。

 だから自分はきっと、
 
 通りからそう離れていないところにいるはずなのだ。

 ――助けてくれ!

 一度そう叫ぼうとして、
 
 胃の中からの嘔吐物によって、死にそうなくらい苦しくなった。

 血の匂いの混じった、痛いほどにすっぱいものが、

 喉奥から大量に込み上げてきたのだ。 

 だから今度は、ゆっくり息を吸い込み、

 吐く息を意識しながら言葉にしようと試みる。

 しかしそれでは、まるで声となって響いてはくれないのだった。

 既に目が覚めて30分は経っているだろう。

 初めはなんとか見えていた星空が、

 今は腫れ上がった瞼に邪魔され、

 ほとんど見ることができなくなっている。

 顔全体がきっと酷い状態にあるのだ。

 しかし実際、致命傷になり得るとすれば、
 
 さんざん傷めつけられた内臓のどれかであるに違いない。

 順一は......もはや何も感じていなかった。
 
 痛みも寒さも、なぜかどこかへと消え失せていた。

 死ぬんだろうか……? 
 
 そんなことを思っても、不思議と怖いとも思わなかった。

 それどころか、まさか自分がこのような死に方をするとは、

 佐和子が知ったらどんな顔をするのか? 

 彼は本気で、そんなシーンを見てみたいなどと思っていた。

 不思議な満足感であった。

 たとえ、これで死んでしまったとしても、

 それはそれで本望であると心から思える。

 順一は人生で初めて、

 さらに最後となるだろう大勝負を挑んでいたのであった。

 それは今から5時間ほど前のこと……。

 彼は渋谷からタクシーに乗り込み、

 六本木へと向かっていたのである。

 家にあった一番値段の張るスーツを着込み、

 訪れたこともない場所へと向かったのだ。

 目的の場所は、運転手のお陰ですぐに見つかった。

 目に付きそうもない小さな看板だけで、

 それも古ぼけた階段を下りるなどと知らされていなければ、

 彼は1時間あっても見つけられなかったに違いない。

 きっと運転手はこれまで何度も、

 その店へと客を運んだ経験があるのだろう。

「ここからは、車は入っていけないんで……」
 
 そう言って頭を下げたあと、彼は丁寧に道案内をしてくれていた。

 そして目的の人物の方も、意外にもすぐに見つけることができる。
 
 男は群衆の中、完全に頭ひとつ分突き出ていたのである。
 
 さらには、眩い光の点滅と、
 
 若い男女で込み合う店内で、彼の周りにだけ少し空間が存在していたのだ。
 
 そんな空間で彼は、何人かの女性を従え、

 陶酔の表情を見せながら踊っている。

 まさに目的の男に間違いなかった。

 たった数時間前に武から、

 そんな顔つきの画像を見せられたばかりなのだ。

 順一は右ポケットに入っているものを握り締め、

 さっさと目的の男へと近づいていった。

 棒立ちの順一などがまごまごしていれば、

 ここでは逆に目立ってしまうに決まっている。

 だから即座に男の空間へと割り込み、背後から大声を上げるのだ。

「わたしは岩井唯の父親だ! 唯のことは知ってるな!?

 しかしはっきりと聞こえなかったのだろう。

 一時振り返り、順一に視線を向けはしたが、

 すぐに何事もなかったように踊り始めてしまう。

 くそっ!

 順一の怒りはその時、

 それまで感じていた恐れを完全に吹き飛ばしてしまった。

 彼はおもむろに男の真正面へと回り込み、
 
 再びその顔を見上げて大声を上げる。

「わたしは岩井唯の父親だ……分かるな? 唯を知ってるな!?

 だからなんだよ......。

 すると男の顔が突然、
 
 そう思わせる形相へと変化した。

 大音響の中、少なくとも順一の声は届いてはいたのだ。

 しかし男は半笑いを見せ、順一をただ見下ろしているだけなのだ。

 であれば仕方がない。

 そんな思いで順一は、右手にあるものを握り締め、

 少しだけポケットからその姿をのぞかせる。

 するとさすがだと言うべきなのだろう。

 男の瞳が瞬時に動き、一瞬にしてその姿を捉える。

 そして次の瞬間には、男の顔つきが一気に、

 柔らかいものへと変化するのであった。
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